歴史好きが超絶わかりやすく教える!猿から始まる果実酒の歴史!
どうも、居酒屋で頼む最初の一杯は梅酒の男しょうです!
ちなみにビールは苦いのであまり好きではありません!笑
お酒自体が弱いのであまり好きこのんで飲みませんが、それでも梅酒は美味しいと思えるくらい素晴らしい果実酒です。
果実酒の歴史は実は猿が作ったのが始まりでした。
そんな果実酒は実は江戸時代に多く作られたことを知っていましたか?
しかも、元々は
それは江戸時代の人々の意識によるものだったのです。
今回はそんな果実酒の歴史について超絶分かりやすく教えます!
果実酒って?
簡単にいうと、果実を原料にして発酵させて作ったお酒のことです。
果実酒で有名なものにワインがあります。
ワインは原料果実はぶどうです。
もちろん梅を使っている梅酒も果実酒の一つです!
果実酒の歴史の始まりは「猿酒 」
どんなものにも最初、いわゆる始まりがあります。
もちろん果実酒にもあるのですが、これが面白いです。
なんと元祖果実酒は猿が作ったのです!笑
猿が木や岩の穴に果実を溜め込んだ山ぶどうなどの果実などが自然に発酵して酒になったのが最初でした。
そういった背景から「猿酒」と呼ばれました。
果実酒の歴史は猿から始まっていたのでした。
人が果実酒を作り始めたのはいつから?
今から4000年前の縄文時代の樽状の土器の中から山ぶどうなどの種子が見つかっていたことから、人はその頃から果実酒を作り飲んでいたと考えられています。
縄文時代の終わり頃にはカップ状の土器が増えていったため、そのカップを使って酒を飲んだのでしょう。
江戸時代に増える果実酒
江戸時代は人々の心にゆとりができたため、みんなの関心は健康と老後に移りました。
江戸時代と健康が気になった方はこちらをチェックです!
お酒は適量であれば健康にいいことは証明されています。
当時から健康にいいことは知られており、果実酒のことを江戸時代の人は「
江戸時代に書かれた『
※『本朝食鑑』とは…
江戸時代に書かれた日本の食物全般についてを調理法から効能まで幅広く載っている本。
その本に載っている16種は下記の通りです。
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・ぶどう酒→ぶどうを用いて作る薬酒。ワインともいう。
・二種の
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・しょうが酒→しょうがを用いて作る薬酒。
・
・みかん酒→みかんを用いて作る薬酒。
・
・梅酒→梅を用いて作る薬酒。このブログ主の好きなお酒。
・
・
・まむし酒→まむしを用いて作る薬酒。
ところどころ今でもよく聞く酒がありますね。
最後の鳩酒とまむしは飲んだことないですが内容的に一生飲みたくないです。笑
逆にみかん酒とか美味しそうだと思いました。
果実酒の歴史は江戸の人々の意識が作った
猿によって作られた「猿酒」から始まる果実酒の歴史は江戸時代になり進化を遂げます。
日本で薬酒として果実酒が本格的に作られていくようになったのは江戸時代からでした。
薬酒が作られるようになったのは人々の意識が健康に移ったからです。
つまり、人々の健康への意識が果実酒を作ったのです。
歴史好きが超絶分かりやすく教える!割り箸は江戸時代に生まれた!
どうも、割り箸がなかなかうまく割れない男しょうです。
だいたいいつも変な割れ方をするのですが、みなさんはどうですか?
割るのが綺麗にできないめんどくささはありますが、箸の代わりになって使えるし捨てられるしですごいですよね。
そんな便利アイテム割り箸は江戸時代の飲食店とともに登場してきたのです。
今回はその割り箸について超絶分かりやすく教えます。
割り箸の歴史
割り箸は1709年の江戸時代に書かれた書物の中に「わりばし」に関する記述があるためにそれが最初といわれていますが、1800年過ぎに登場したものが最初という説もあります。
どちらにせよ200年〜300年前の江戸時代に割り箸が登場していたことは間違いないようです。
江戸時代といえば料理ブームによって人々の関心が食に向いていた時代です。
飲食店とともに割り箸も誕生していたということです。
江戸時代の料理ブームについて気になった方はこちらをチェックです!
ちなみに当時は「引き裂き箸」と呼ばれていました。
半分まで割った杉の箸で、食べる時に裂き割って食べることから引き裂き箸と言われています。
半分まで裂かれているのが良心的すぎる…
今の箸なんて半分も裂いていてくれてないので割ると変な感じになるんですよ。
現代の割り箸たちよ!江戸時代の割り箸を見習いたまえ!
そんな割り箸が必ず添えられていた料理がありました。
それがどんぶり料理の一つ「うな丼」です!
どんぶりとうな丼
どんぶりもうなぎの蒲焼や握り寿司た天ぷらのように江戸時代に生まれた料理の一つです。
江戸っ子たちは料理ができない&しない上に待つのも嫌いな素晴らしい性格なため、そのニーズにあうどんぶりは人気でした。
そんなどんぶり界のプリンスがうな丼でした。
うな丼は江戸時代末期頃の日本橋で誕生したといわれています。
誕生には諸説ありますが、今回は面白い方の説を話します。
忙しくてご飯を食べられないといううなぎマニア
うなぎを食べようとしても忙しいので
しかし冷めてて美味しくない&糠とるのめんどいことに不満を持った(かもしれない)のでした。
そこで炊きたてのどんぶりの中にうなぎの蒲焼を入れたところ、ご飯も蒲焼もホカホカなことに加え、タレがご飯の上に馴染んでとてもうまいのです。
これが元祖うな丼の一説です。
この時代のうな丼には必ず引き裂き箸が添えられていました。
おそらく、うな丼だけでなくどんぶり系および飲食店で引き裂き箸を採用しているところはあったと思います。
江戸の料理ブームはすごい!
こうして色々な江戸時代に生まれた料理を見てきましたが、割り箸も生まれていることには驚きました。
江戸の料理ブームとともに生まれた割り箸は当時の飲食店の人たちの知恵だったのです。
とりあえず昔の割り箸の良心さを見習って欲しいですね。
江戸時代半端ねぇ…
歴史の教員免許を持つ歴史好きが教える!天ぷらとそばは江戸で出会った!
どうも、料理の歴史をインプット中のしょうです。
みなさんは天ぷらそば好きですか?
好きか嫌いかで聞かれたら自分は好きな方です。
(天ぷらで一番好きな料理は天丼です…笑)
そんな今ではよく見る天ぷらそばですが、天ぷらとそばが出会ったのは江戸時代だと言われています。
江戸時代は料理ブームであったため、色々な料理が生まれました。
江戸の料理ブームが気になった方はこちらをチェックです!
今回は天ぷらそばについて歴史好きが超絶分かりやすく教えます!
天ぷらの語源って?どんな歴史?
天ぷらの語源はいくつか説がありますが、ポルトガル語で「調理」を意味する「tempero」からきたという説が有力です。
小麦粉の衣をつけて揚げる「つけ揚げ」は、ポルトガルやオランダなどの
つまり、天ぷらは南蛮貿易とかによって伝わった南蛮料理を日本流にアレンジさせたものなのです。(スペインとかポルトガルのことを当初日本は南蛮と言っていました!)
特に江戸時代は料理ブームによって人々は食を求めました。
それによって誕生したのが屋台でした。
寿司屋やうなぎ屋など色々な屋台が出てきましたが、中でも天ぷら屋は結構な人気があったようです。
寿司やうなぎについて気になった方はこちらをチェックです!
人気があった理由は材料の幅が広かったからです。
江戸前の江戸湾(今の東京湾)から採れる穴子やエビやいかなどの新鮮な魚介、郊外から運ばれてくるごぼうやれんこんやさつま芋などの新鮮な野菜があります。
寿司屋ならほぼ魚介オンリーだし、ウナギ屋はうなぎだけなのでネタのレパートリーで優っていたのです。
そばの歴史は米より古い!
そばの栽培自体は稲作文化よりも古く、今から9000年ほど前の縄文時代には既に栽培されていたことが遺跡から出土したそばの種子によって判明しています。
そばは稲作が難しい土地でも作ることができ、種子を蒔いてから80日くらいで収穫できることから凶作対策の作物として古代から重要視されていました。
今のような麺状に切って食べる「そば切り」が出現してくるのは江戸時代初期(1596~1615)の頃です。
ただ初期のそばはそば粉100%で作っていたので切れやすく、
さすがに食べづらかったのか江戸時代初期から50年後くらいになって、そば粉8割に対して小麦粉を2割をつなぎとして配合した「二八そば」が登場しました。
天ぷらとそばが江戸で出会う!
江戸時代の中期以降になり、どんぶりにそばを盛り、その上に天ぷらやかまぼこや鴨肉やネギを入れた料理が人気を呼んでいたそうです。
天ぷらとそばはこうして出会ったのです。
まるで織姫と彦星や…
歴史好きが超絶分かりやすく教える!土用丑の日にうなぎを食べる理由!
どうも!小さい頃はうなぎの骨におびえていて、土用丑の日にはうなぎではなくマグロのたたきを食べていたしょうです。
うなぎを食べていると小さな骨が喉を突き刺して死にかけるという経験を小さい頃は頻繁にしていたので、
うなぎは恐ろしい…
となっていました。
そんなうなぎですが、なんで
実は江戸時代のあるエピソードによるものであると言われています。
それに絡んで来るのは日本のエジソンこと
あくまで言い伝えのようなもので確証はないですが、間違いなく面白いのでそのまま読み進めてください。
土用丑の日ってそもそも何?
いつもいつも何も気にせず言葉に発している「土用丑の日」がわからないと何も始まらないです!(分からなくても始まります)
まずはこの「土用丑の日」について見ていきましょう。
土用とは今では土用丑の日という風に夏の特定の一日を言っていますが、本来は春にも秋にも冬にも土用があるのです。
土用の期間は
よくカレンダーに小さく書いてあるあれです。
その土用期間は健康の守り神が不在となるため思わぬ事故や災いが発生しやすくなるという考えがありました。
特に夏の土用は他の土用より圧倒的に気温が高く暑いので、乗り越えることが非常に重視されていました。
丑の日はその土用期間のうち干支が丑にあたる日(大体7月19日か20日)のことを言います。
そんな暑くて一年の山場的な夏の土用に困っていたうなぎやさんがいました。
うなぎやさんと平賀源内
今この瞬間が夏の暑い中だとします。
その時あなたが食べたいものは何ですか?
おそらくアイスやらかき氷やらフルーツやら出て来ると思います。
みんな大好きな焼肉とか頭から出てこなかったですよね?
もしかしたら夏でも焼肉とか脂っこいもの食べたい人いるかもしれませんが、基本は夏場に脂っこいものは食べたい気持ちはないはずです。
むしろさっぱりしたやつを食べたいはずです。
自分だって学生の頃、夏の時期の弁当は「パイナップルとか桃とかフルーツだけ入れて欲しい」と常々思っていたくらいです。
今は夏に脂っこいうなぎを食べていますが冷静に考えたらおかしいですよね。
脂っこいものはあまり食べたくないんですから。
そんな夏場ゆえの悩みを江戸時代のあるうなぎやさんが抱えていました。
この時代にうなぎやさん?と驚いた方はこちらをチェックです!
ある時、平賀源内に「どうしたら脂っこいうなぎの蒲焼をこんな暑い夏に食べてもらえるかな?」と相談しました。
源内は筆をとって「本日は土用丑の日!うなぎを食べよう!」と書いた紙を店に貼りました。(こんなフランクな文じゃないと思います。多分…)
すると、うなぎやさんは大繁盛し他のうなぎやも真似ていったのです。
元祖コピーライティングや…
うなぎが健康にいいことは当時から知られており、青の当時の人々は健康を意識していたためニーズが合ったのかもしれません。
江戸時代と健康で気になった方はこちらをチェックです!
土用丑の日はうなぎを食べよう!
先ほどの通り、土用丑の日にうなぎを食べる習慣ができたのは平賀源内のコピーライティングと世の中のニーズが合致したからでした。
普段当たり前に認識しているものもこんな面白いエピソードと歴史が詰まっているのです。
次の年の土用丑の日からうなぎを食べる時には自分流の「うなぎが食べたくなるコピーライティング」でも考えながら食べるのも面白いかもしれません。
実際に健康よく夏バテ防止にもなるので土用丑の日はうなぎを食べましょう!
パイナップルも食べましょう!笑
歴史の教員免許を持つ歴史好きが教える!江戸時代にもアイドルがいた!
どうも、アイドルにはそこまで興味はないしょうです。
現在もAKBやらモー娘。やらいろんなアイドルがいますが、江戸時代にもアイドル的なポジションの人たちがいたこと知ってましたか?
しかもアイドルの人気効果を利用して儲けるような店がありました。
それが水茶屋という店です!
今も昔も結局は同じなんです!
今日はそんな学校では習わない江戸時代のアイドルについてを超絶分かりやすく話します。
水茶屋 とは?
水茶屋とは歩いている人たちが立ち寄って休むための茶屋です。
今でいうスタバとかドトールとかの喫茶店のことです。
出てくるのはお茶とかで今みたいにコーヒーとかアイスティーとか出ません。
水茶屋が江戸の町に出てきたのは1661年その4年まえに明暦の大火という火事がおきているので、もしかしたら飲食店と同じ理由で出現したのかもしれないです。
火事と飲食店について気になった方はこちらをチェックです!
お茶は健康によかったため、健康を意識し出した時代と人のニーズが水茶屋を生んだ可能性もあります!
江戸時代と健康について気になった方はこちらをチェックです!
そんな水茶屋ですが美人が多かったみたいです。
今の喫茶店と同じやん!
そんな水茶屋に頭一つ抜けて人気を集めたアイドルが出てきました。
それがお
江戸時代のアイドルお仙
そんなある日、浮世絵師の
彼は美人を題材に絵を描く変態です。(変態じゃないです。鈴木春信クラスタの方すいません!)
そしてお仙があまりにかわいかったのか絵のモデルにすることにします。
秋元康ならスカウトしてる。
すると爆発的な人気が出てみんな見に行くようになりました。
団子とお茶を売るだけのどこにでもある水茶屋なのに人で溢れ大繁盛しました。
そうするとみんな対抗しないといけなくなるので、他の水茶屋にも女の子を置くようになり、メイド喫茶のようになっていきました。
迷うことなきアイドルですね。
結局いつの時代も同じようなことやってる!
かわいい子を置けば、かわいい子目当てで客は増え、お店は繁盛する。
このいわゆるアイドル商法は江戸時代にはすでに考えられていたのです。
結局いつの時代も考えることはもちろん、やってることも同じなのです。
歴史好きが超絶分かりやすく教える!食事は少食で腹八分目に抑えろ!
どうも、最近少食になった気がするしょうです。
みなさんはご飯を食べる時は満腹になるまで食べますか?
それとも満腹になる手前の
実は腹八分目まで食べる方が満腹まで食べるよりも健康にいいそうです!
そのことを江戸時代に広めた人がいました!
それが
なんか貝が好きそうな名前…
貝原益軒はなんと言っていたのか、腹八分目が健康にいい理由は何か。
今回はそんな疑問を歴史好きが超絶分かりやすく話します!
貝原益軒 って誰?
正直、詳しく知る必要はありません。笑
今風に言うと肩書きがいっぱいある、いわばいろんなことに挑戦した人です。
彼は多くの本を書いていますが、それらの本はどれも分かりやすく誰でも理解できるように書かれているのが特徴です。
とりあえず、色々なことしていた頭の中が宇宙のすごい人だけど本はめちゃくちゃ噛み砕かれて分かりやすく書いている人だと思っておいてください。笑
ちょうど江戸時代は人々が健康を意識し出しており、「健康」というワードは時代のニーズだったのです。
江戸時代と健康について気になった方はこちらをチェックです!
そのニーズに気付き(気づいて狙ったかどうかは分かりませんw)いち早く本を出しました。
それが『
『養生訓 』から学び知る食事の基本
この頃の江戸は料理ブームであり、健康を意識した時代であったため、もしパソコンがあったら「料理 健康」は検索ワード1位レベルです。
料理ブームについて気になった方はこちらをチェックです!
今回はここで書かれていることのうち飲食の部分に関して少し見てみようと思います。
元気は生命のもと!飲食は生命の養分!
『養生訓』の中に「人の体は元気を天と地から受けてきたものであるが、飲食による養分がなければ元気が無くなって命が保てない。元気は生命のもとであり、飲食は生命の養分である」とあります。
お腹空いていたら元気とかやる気でないし、何も食べなければ死んでしまう!
飲食はそれほどに大事だということです。
「腹が減っては戦はできぬ」という言葉も有名ですよね。
人が生活する上で必要な要素である「衣・食・住」に入る食は昔から変わらず大事だったのです。
食事は少食に!腹八分目まで!
飲食は大事だからと言って食べ過ぎるのはよくありません。
「めったに見ない美味しいものを前にしても、腹八分九分までに抑えること。満腹まで食べたら後々腹をこわしたり病気になる」
「昔から人は飲み食いになると食欲に任せて食べてしまうもの。酒も食も茶も湯も良いと思っても控えて七分八分にするように。」
どちらも別の箇所の文なのですが、
腹いっぱいではなく腹八分目くらいまでにしておけ!満腹まで食べると病気になる!
と言っているのです。
マウスを使った実験で、食べ放題にした満腹マウスと食事を腹八分目に制限された少食マウスでは少食マウスの方が満腹マウスよりもはるかに長生きしたことが証明されています。
それから一定のカロリー制限は細胞の老化を遅らせ、細胞の機能不全によって引き起こるガンや動脈硬化や糖尿病などの多くの生活習慣病の予防に効くということがわかってきました。
つまり腹八分目=少食が健康維持の秘訣ということです!
マウスの実験は1990年に発表されたもので、益軒はそれより約280年前の1712年には本で訴えていたのが益軒のすごさを物語っています。
健康以外に少食をすすめたもう一つの理由!
健康の他にもあるのではないかと自分は考えました。(ここからは自分の予想です!)
それは
当時の日本は寒冷な時代であったため凶作(米獲れない…)や飢饉(極限状態の空腹)が絶えませんでした。
つまり食事ができない状況が多かったのです。
そんな状況だからこそ少食をすすめたのかもしれません。
普段から少食でいれば凶作や飢饉の時もある程度耐えられるからです。
少食をすすめたのは江戸時代に飢饉が多かったため、その時の対策だったのかなとも思いました。
食事の食べ過ぎは注意!
今回は頭の中が宇宙のすごい人
腹八分目だとか少食だとか言いましたが、一番大切なことは食べ過ぎないことです。
どんなに健康なものも食べ過ぎたら逆効果ですよ!
ちなみに貝原益軒は『養生訓』に記したように養生第一を心がけ、85歳という長寿で亡くなりました。
当時の寿命はだいたい50歳くらいですから、かなりの長生きであり、彼自身が腹八分目の良さを証明したことになりました。
歴史好きが超絶分かりやすく教える!健康を考え出したのは江戸時代!
どうもインスタント味噌汁大好きなしょうです。
やかんで沸騰させたお湯を注いでできる味噌汁美味しくないですか?
個人的にインスタントの中で一番好きなものは味噌汁です。笑
そんなお湯を沸かすためにあるやかんですが実は元々別の用途で使われていたのは知ってましたか?
今のようにお湯を沸かすために使われたのは江戸時代くらいからだったのです。
そんな身近な「やかん」は江戸時代の人々が健康を意識することによってだんだん使われるようになってきました。
今回は江戸時代の人々が健康を意識するようになったのはなぜかを歴史の教員免許を持つ歴史好きが超絶分かりやすく教えます!
やかんと健康!
やかんは漢字で書くと「薬缶」なのは知ってましたか?
実は元々やかんは、
鎌倉時代の頃に薬草など薬を煮出すために使われていました!
だから薬缶なのです!
今と全く用途が違いますね。
やかんが鎌倉時代からあったなんて…
やかんはいつから今のような使い方になったのか?
茶漬けの原型となった湯漬け(お湯をご飯にかけたもの)や食後に飲むためのお茶のためにお湯を沸かすようになったのは江戸時代からです。
江戸時代になるとどこの家にもやかんが常備されており、薬草の知識も増え、風邪を引いた時には薬を煮出すために使われていました。
食べる漢方薬とも言われる七味唐辛子もこの江戸時代に生まれました。
江戸の人たちが健康を意識するようになったのです!
お茶といえば昔はお殿様扱いされていました。
お茶が殿様?となった方はこちらをチェックです!(だいぶ面白いです!笑)
健康意識は江戸時代から!
江戸の人たちが健康を意識するようになったのは江戸の人たちにゆとりができたからです。
この安定した平和によって人々は心にゆとりが持てたのです。
前回も話したうなぎの蒲焼きや天ぷらや寿司はどれも東京湾から採れます。
うなぎや天ぷらや寿司について気になった方はこちらをチェックです!
うなぎやエビなどを採るためには釣りが必要です。
その釣りが盛んになったから生まれた料理なのです。
メンコや凧揚げなど人々の遊びもこの江戸時代からです。
平和が人の心にゆとりを持たせ、その結果色々な娯楽が生まれたのです。
江戸幕府も江戸小石川の
また、江戸幕府8代将軍の
※目安箱とは…
庶民の意見を聞くために徳川吉宗が置いた箱のこと。これによってあまり届けるのが困難な庶民が将軍に直接意見を訴えることができた。
貧しい人々のための無料で使える医療施設で、小石川薬園の中に設置されました。
その場所は植物園となり今は小石川植物園という名前で多くの人に親しまれています。
心のゆとりは大切!
心にゆとりが生まれて健康を意識するようになった江戸時代の人々。
戦争が多かった時代は健康やら老後の意識を意識している人は少なかったはずです。
明日死ぬかも知れない中で意識する余裕なんてないですから。
徳川家康の開いた江戸幕府によって平和がもたらされ、それが人の意識を変える余裕を生んだのです。
今、心にゆとり・余裕がない人。
お茶を飲む、テレビを見る、お金を稼ぐ。
心にゆとりを持つ方法は人それぞれあります。
一度、ゆっくりしてみて自分なりの方法を見つけてみましょう!
心にゆとりができた時、新しい何かが思いつくかも知れませんよ!
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