【東海道五十三次を歩く!14日目】人違いもあるけど、城違いもあります。
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は14日目三重県の四日市市からのスタートです。
前回の13日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「鈴鹿峠と言っても鈴鹿にあるとは限りません」
今日14日目の記事は鈴鹿市に到達したところからスタートです!
鈴鹿と聞けば東海道の最後の難所「鈴鹿峠」ですね。
僕はこの時まで鈴鹿峠を「すずしかとうげ」と読んでいたんですが、実際は「すずかとうげ」と言うことをあとで知ることになります。
しかも鈴鹿市とみるからに「鈴鹿峠やってきますよ!」の雰囲気醸し出してるのに、鈴鹿峠ないんです。
鈴鹿峠はさらに先の亀山市あたりなんです。
不思議な感じですね。
まさに見た目だけで判断してはいけないってやつですね。
と色々と思いながら歩いていると、
綺麗な風景や
ほぼさら地がありました。
ただただ風景を満喫してます。
途中で小さな地下道がありました。
奥の出口が光で満ちている雰囲気が良かったので一枚撮ってしまいました。
ここまで歴史要素ゼロ…
歩いてる道が歴史そのものなんだよ!(暴論)
たまに通る歩道橋のこの真ん中の自転車用の道が足を絶賛痛めている僕の負担を軽減できて嬉しいです。
このままだとこのパートが歴史ゼロで終わるので、ここで一枚。
こちらは石薬師寺です。
出典:Wikipedia
東海道五十三次にも描かれているお寺です!
僕が撮ったのはおそらく絵の真ん中にいる人たちのところからの写真ですね。
なぜか同じ角度から撮ってませんでした。(多分建物が多かったからだと思います。)
東海道五十三次を歩く!「人違いならぬ城違い」
ついにやってきたのは亀山宿です!
時間は16時前ですが、良い天気です。
この亀山宿にはお城がある(今は櫓とか一部)という情報を手に入れ、早速行きました。
それがこの亀山城!
亀山城で僕はハッとしました!
亀山城といえば明智光秀が築城した有名なお城やん!と。
でもよく調べたら全然違う別の亀山城でした。
築城したのも関氏という僕の知らない家です。
江戸時代にはこの亀山城は京都に行く将軍たちの宿泊所の機能を有していました。
お城と言っても現存はしていなく、あるのは多聞櫓というお城の一部でした。
※
城にある外の様子を見たり、防御のための施設を櫓という。
この櫓の基本機能に兵士の宿舎としての機能を加えたものが多聞櫓。
でも意外とこの多聞櫓がすごいんです!
・昔と変わらず同じ位置に現存している
・そもそも全国的にも貴重な歴史的建造物
ということで三重県の史跡に指定されてます。
人違いならぬ城違いをした瞬間でした。
今回の旅で初めてまともにお城を見れたのでそれだけで満足です!
【亀山城へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「長い道を抜けたらそこは江戸時代」
亀山宿歩いていて綺麗な写真が撮れたのでどうぞ!
僕、結構こういう逆光系の写真好きなんですよね。わかる人いませんか?笑
宿場を抜けた後に待ち構えていたのはこの長い長いゴールの見えない道です。
これは
※
細いまっすぐな道のこと。
だいぶ長い。
鈴鹿峠から吹いてくる空っ風(冷たい強風)が手強く、旅人を悩ませたという。
まぁすぐに歩き切ったんですけどね。
端折ったな。だいぶ端折ったなー。
そしてとうとう今日のゴール三重県亀山市の関宿です!
奥には最後の難所「鈴鹿峠」らしきものが見えます。
この関宿は入り口から出口、端から端までほとんど昔の町並みが残っていることから国によって、、、
「重要伝統的建造物群保存地区」
に選ばれてます!
早口言葉か何かかな?
要するに昔ながらのこの町並みを大事に残していこうってやつです。
関宿は東海道の難所鈴鹿峠を隣に控えているので、ここで宿泊する人が多く、とても賑わっていました。
出典:Wikipedia
東海道五十三次にも宿泊していた大名の「これから行くぞ!」の雰囲気が描かれてます。
浮世絵と同じ場所はこちらです!
描かれている本陣(宿泊所)は川北本陣と言われていますが、現在は石碑が建っているだけとなっています。
当時の姿が残っていないものもありますが、それでもこんなに昔の町並みが残っているところが日本にまだあったなんて思いもしませんでした。
ただただ感動ですね。
ここだけ本当に江戸時代のように見えました。
ということで今日はここ「旅人宿 石垣屋」で宿泊です!
歩き始めて初めてまともな寝床で、しかも宿場の中で宿泊できるなんて最高の二文字です。
石垣屋について気になった方はこちらをチェックです!
今日は鈴鹿峠を控えているためあまり歩きませんでした。
約25km歩き、亀山市まできました。
明日は東海道の最後の難所鈴鹿峠です!
【関宿へのアクセス】
【15日目の記事】
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【歴史好きが超絶分かりやすく教える!】面白い富士山登山の歴史!
富士山登山中からこんにちは!しょう(@shos_history)です!
だいぶ可愛げのある富士山だな…
こちらの可愛い富士山は歴史を語る公園にあります。
僕の方が大きいせいか、富士山が小さく見えますよ。
いゃ、それより後ろのカメラ目線の人の方が気になるんだが…
※あまりにも急すぎて山頂に登れなかったことをここで報告します。
日本の歴史を振り返ってみても、富士山はその美しい姿を変えることなくそこに存在しています。
つまり今の富士山と同じ富士山を源頼朝や織田信長や徳川家康や坂本龍馬など昔の人たちも見ていたんです。
これって意外とすごくないですか?
歴史が長いので、その分面白い歴史が多くあります。
今回は富士山に関する面白い歴史をおかゆのように噛み砕いていくつか話します!
富士山の歴史の始まり!
何百年も前には富士山(仮)は海の中だったみたいです。
それが地上からひょっこりはんしてきて始まりました。
おはよう富士山です。
その富士山(仮)が噴火を繰り返しているうちに、火山灰やら溶岩が堆積し、今の大きさになっていきました。
だいぶ大雑把に話すと富士山の始まりの歴史はこんな感じです。
大雑把すぎてひょっこりはんしか印象にないんだが…
ちなみに富士山が最後に噴火したのは1704年の宝永大噴火で、「江戸の町は昼間でも暗かった」とか「灰が5~10cm降り積もった」と記録が残っています。
富士山が噴火すると東京まで灰が飛んでくるんですね。怖い怖い。
聖徳太子と富士山登山伝説!
人外なんじゃないか?と言うくらいに数多の伝説を残している男「聖徳太子」が富士山にも伝説を残してました。
聖徳太子の人を疑うレベルの伝説が気になった方はこちらをチェックです!
聖徳太子はある日、諸国から良い馬を集めました。
集まった数百匹の馬の中から四脚が白い馬を見つけた聖徳太子は、
「こいつ神の馬じゃね?」
と言います。
早速飼育させて、聖徳太子は試乗するんです。
そしたらその馬が天高く駆け上がり、富士山を超えて信濃(長野あたり)に行ったのです。
もしやその馬はペガサスでは?
富士山に最初に登山した人は正確には分かってないようですが、もしこの伝説が本当だとしたら記録上は聖徳太子が最初の登山者かもしれませんね。
登山してないんだが…
登山とは何かと言う哲学の話ができそう…
この手の伝説を毎回聞いて思うんですよ。
昔の人ってもう少し上手い嘘つけなかったんですかね?
富士山に登山した最初の女性!
富士山最初の登山者が誰かよく分かってないのになぜか女性の記録はしっかり残ってるんです。
なぜなら昔は女人禁制だったからです。
・山には神がいる的な信仰が昔からあり、山にこもって男は全ての欲を絶ち、修行をしていたから
・浅間大社が祀ってる女性の神コノハナサクヤヒメが怒るから
など諸説あるようです。
女人禁制だった場所に女性が登れば、そりゃあ記録に残るでしょうね。
そして記録上初めて富士山に登った女性の名前は高山たつ。
名前から既に富士山を登る固い決意が表れてますね。
高山たつさんは1832年に男性グループの登山チームに紛れて男装して富士山を登りました。
男装して隠れないと富士山登れない時代があったなんて…
当時女人禁制とは言っても、女性でも2合目までは富士山に登ることができました。
1860年から8合目まで解禁されます。
女性が富士山の頂上まで登ることが許されたのは1872年。
富士山以外にもほとんどの山から女人禁制がなくなりました。
そしたら逆に気になること出てきますよね?
富士山に登りたいけど登れない女性はどうしてたの?と。
実は当時の女性たちは富士山のミニチュア版「富士塚」に登って富士山に擬似的に登った気分を味わっていたそうです。
東京の千駄ヶ谷にある鳩森八幡神社には当時と同じ場所に現存するものとしては最古の富士塚がありますよ!
【鳩森八幡神社へのアクセス】
外国人が富士山登山の歴史を動かした?
富士山登山の歴史を変えた外国人の話をして終わりにします。
幕末になると開国したことによって外国人が日本にたくさんやってくるようになりました。
開国の歴史をおかゆのように解説してるのでぜひ読んでみてください!
もちろん日本の最高峰の美である「富士山」を登りたい人が出てきます。
それがイギリス初代駐日公使のオールコックです。
※オールコックとは…
イギリスの初代駐日公使。
幕末の日本で活躍していた外交官である。
帰国後に幕末の日本の様子を記した本『大君の君』を出版した。
時は幕末で「外国人は排除しろ」と言う声が大きい時代。
日本で観光させることがどれほど危ないか分かっていた幕府は外国人を国内で自由に動くことを制限してました。
ただし、外交官は旅行OKだったんです。
と言うことで
・
・
・
オールコックは外交官なので旅行するんです!
もちろん幕府も「ちょっとタイム!待って!」と言うんですが、強行します。
折れた幕府も念の為と人馬を随行させます。
もはや大名行列です。
多分、旅行気分だったはずのオールコックも「これ違くね?」って思ってたに違いありません。
状況はどうであれ、1860年にオールコックは外国人で初めて富士山を登った人になりました。
しかし。
富士山の山頂に着くと、イギリス国旗を掲げて、火口に銃をぶっ放し(礼砲)、シャンパンで乾杯したそうです。
相当の達成感があったんでしょうね。
自由すぎる…
それから7年後にオールコックの次の2代目イギリス公使パークスが夫人ファニーを連れて富士山に登山旅行します。
※パークスとは…
イギリスの2代目駐日公使。
オールコックと同様に幕末の日本で活躍していた外交官である。
もみあげがすごい人。
このファニーこそ、外国人女性として初の富士山の登頂でした。
そして覚えてますか?
この頃、日本では女性が富士山を含む山に登るのは禁止されてましたよね?
このファニーの登頂によって外国人女性が富士山に登ったと言う前例ができ、「日本人女性も登ってよくね?」と言う感じになります。
そして1872年に女人禁制が解禁されたんです。
まさに外国人が富士山登山の歴史を動かしたんです。
しかも、富士山登山の歴史にはオールコックやパークスなどの幕末を語る上では欠かせない人たちが関わっていたのでした。
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【東海道五十三次を歩く!13日目】歴史を語っていても耳を傾けないと聞こえない!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は13日目愛知県の名古屋市からのスタートです。
前回の12日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「埋立地だと歴史観光ができない!」
今日は名古屋市の埋立地からスタート。
元々は海だったところを歩くのは不思議な気分です。
そして元々海だったので観光できるような歴史なんてあるわけもなく、ただひたすらに歩きます。
もちろん埋め立てられてからの歴史は何かしら存在すると思うんですけど、僕が興味を持つような歴史はないでしょう。
写真は偶然海沿いを歩いた時の写真です。
なんか小さい鳥がいっぱいいました。
これから桑名に向かうんですが、かなり遠いので一旦休憩を挟みます。
あの〜、全く歴史関係ない話していいっすか?
ファミリーマートのホットスナック買った時におなじみの黄色い袋に入れて渡されるじゃないですか?
ここに「メモ」と書かれたスペースがあるんですけど、これ何に使うんだろう…って急に気になりました。
これ何に使うと思います?
調べてわかったんですけど、どうやら、、、
従業員がこの袋には何入れたかとかメモするために使う場所のようです。
要するに従業員用のメモスペースなんです!
面白いけど歴史全く関係ねぇ…
歴史観光できないのでこういうちょっとしたことが気になってしまいました。
東海道五十三次を歩く!「桑名宿の歴史を語る公園」
そんなこんなで歩いていると、ついに桑名に到着しました!
ここ桑名宿は隣の宮宿と七里の渡しとして船で繋がっていました。
海沿いということで港町として大いに賑わっていたそうです。
桑名についてまず通ったのはこの住吉神社です。
大阪にある住吉大社から勧請(住吉大社の神の分身を分けてもらう)して建立されました。
住吉大社といえば航海安全の神、海の神で、港町の桑名にフィットする神様です。
住吉大社ののれん分け的な神社ですが、しっかり立派な神社でした。
元旦には初日の出がこの鳥居の真ん中から上がることから初詣の人気スポットにもなってるようですよ!
蛇口が龍になっててかっこよかったのでパシャり。
こちらが昨日の夜に訪れた宮宿のやつと同じで七里の渡しの桑名宿側の船着場です。
出典:Wikipedia
東海道五十三次と同じ感じに撮ってみましたがいかがでしょうか?笑
桑名城と船着場のしっかり見てから先に進むと、
「歴史を語る公園」に到着しました。
名前がすごいのでとりあえず歩いてみると、、、
当時の再現をしてるかのように船着場があったり、
石垣は当時のものなんでしょうか。
歴史を感じれるいい公園でした。
歴史を語るとは…
この後に新事実が発覚します。
東海道五十三次をモチーフにして作られた公園が歴史を語る公園だったのです!
つ・ま・り!
僕自身はこの時気付いてませんでしたが、、、
この公園は縮小版東海道五十三次だったのです!
どうりで途中に富士山とか京のゴールにある橋のようなものとかあったわけです。
この公園はしっかり歴史を語ってくれていたんですね。
僕が耳を傾けて歴史を聞いてませんでした。すいません!切腹します!
【歴史を語る公園へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「力石は子供用ならなんとか持てそう!」
歴史を語ってくれていたのに歴史を聞こうとしなかった自分に「何やってんだ俺は…」と少し思いながら歩いていると、
赤信号ですね。
もちろん赤なので止まります。
そして意外と早く車の信号が黄色になったので渡れると思いました。
ん?
あれ?
車側の信号が全く赤になってくれないんですけど。
黄色信号が点滅してるだけなんですけど。
試しに歩行者専用の信号を見ていると、
赤です。
紛れもなく赤です!
上を見ても、
黄色。
そして消えて、、、
また黄色です。
……
歩行者を渡らせる気ないですね。
記憶が定かではないですがどうにかして渡りました。
世界には僕らの常識を超えた信号機が数多くあることを知ったのもこの旅の経験でした。
雨もまぁまぁ降っていた中で頑張って歩いていると、ついに四日市に入りました。
そんなに面白い歴史観光できる場所がなく、ひたすら歩いている僕の足を止めるものがありました。
お!食べ物か?
違います。
石です!
はぁ?
もちろんただの石ではなく、力石という石です。
明治時代の中頃、この村の寺の再建にあたり、その土台となる石や再建を手伝う人が集まりました。
その寺の再建手伝いの休憩時に、土台石を使って体力試し(力試し)に持ち上げ競い合ったのです。
筋トレでどっちが重いバーベル上げられるか勝負するやつに似てる…
その土台石がこの力石です!
重さは約120kgで、肩越しまで持ち上げた化け物はさすがにいなかったようです。
ちなみに写真左下にポツンとある小さな石はおそらく子供用の力石です。
重さは約19kgなので、これなら僕でも持ち上げられそうです。
当時はゲームなんてないのでこういう遊びが流行ったんでしょう。
東海道五十三次を歩く!「笹井屋のなが餅は歴史も長い!」
そしてやってきました!四日市宿です。
ここは東海道五十三次でもおなじみの三滝川と三滝橋です。
出典:Wikipedia
当時と雰囲気が似てますね。
そして三滝橋を渡り終えると待っているのは笹井屋です。
こちらは創業1550年の老舗です。
つまり店が開いてから470年ってことか!
織田信長のいた時代ですね。
銘菓は「なが餅」というアンコの入った細長い餅です。
戦国武将で築城の名手と言われた
「武運の長き餅を食うは幸先良し!」
と言って美味しさに絶賛したと言います。
「長い」が縁起に良かったのも喜んだもう1つの理由かもしれませんね。
そしてそして!
この四日市宿にある一里塚でついに日本橋から100里目です!
1里で約4kmなので、400km地点に到達です!
ゴールが見えてきました!
今日は約38km歩き、四日市まで来ました!
だいぶ歩いてきたためか、30km越えても全然余裕で歩ける不思議です。
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【東海道五十三次を歩く!12日目】東海道五十三次は誇張されてるものもある!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は12日目愛知県の岡崎市からのスタートです。
前回の11日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「雲竜の松と助太夫の免除申請の話」
今日最初の観光はこの永安寺です。
この永安寺には大きな松があります。
その名も雲竜の松!
名前も見た目もかっこいい…!
この雲竜の松には感動の歴史があります。
時は江戸時代。
宿場では人と馬が手配され、やってきた旅人や大名たちのために割り当てられ使われたという話は既にしました。
その人と馬はどこから来るのか…
そう。近くの村々からやってくるのです!
江戸幕府が宿場の保護のためにその宿場の村々(選ばれし村)に「人と馬を宿場にちょくちょく派遣するように」という命令がされていました。
これは選ばれたくない…
これが
元は臨時の仕事だったのに、交通量が次第に増えていくとデフォルトの仕事になりました。
デフォルトになると助郷役に選ばれた村は困窮していきます。
これが江戸時代の繁栄にある裏側の負の部分です。
そして話はこの松の木がある村。
困窮に耐えかねた柴田助太夫は「村が困窮してるので人馬の派遣免除してくれ!」と直訴(偉い人に直接訴えること)という免除申請をしました。
この村の領主(長)であった殿様は男の要求を聞き入れて免除しました。
これはアツい!
しかし!
え??
男は死罪となったのです!
ええええええ!なんで!
この時代、直訴するだけでもかなりの命がけだったようです。もちろん命が助かるケースの方が多いのですが。
これ以降この村は、村を支配する殿様が変わるごとに(要は管理人が変わるごとに)この助太夫の一件を説明し、免除申請を更新し続けました。
ついには幕末まで免除申請されたようです。
村の人たち強すぎるw
村の人々は助太夫に助郷役を永遠に免除できたことに感謝し、彼の住んでいた家を寺として整え「永安寺」と名付けました。
「雲竜の松」という名前の由来は雲を超えて天に登ろうとしている竜を連想させる形からきています。
樹齢は助太夫の頃からと言われていますよ。
いい話すぎてドラマ化できる…
ぜひ英雄助太夫の永安寺訪れてみてください!松の動きがすごいですよ!
【永安寺へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「いもかわうどんと阿野一里塚」
いつの間にか知立市に来ました。
松並木がまたいい味出してます。
じじいみたいな感想だな…
いもかわうどんと書かれた場所もありました。
昔、いもかわうどんという食べ物がこの辺りの名物であったようで、街道一と言われるくらの評判だったようです。
このいもかわうどんが名古屋名物きしめんの起源と言われています。
そしてこちらは阿野一里塚です。
両側とも現存している珍しい一里塚であることから国の史跡に指定されています。
昔のまま残ってるなんてすごい!
東海道五十三次を歩く!「桶狭間の戦いの戦場はどこ?」
戦国好きで、織田信長好きと言えばここは外せませんよね?
そう!桶狭間の戦いの古戦場跡です!
※桶狭間の戦いとは…
今川義元という東海地方をだいたい支配していた大殿様が「そろそろ京都に行くか」と大軍を率いて動き出した。
その道筋にいたのが織田信長であった。
この頃の織田信長は弱小レベルなので余裕で倒せると思っていた今川さんは桶狭間でひと休憩。
偶然にも大雨であった当日。織田信長は今川さんたちが休憩してるところを急襲し、今川義元を討ち取る。
ここから織田信長が歴史の表舞台に登場する。
同じくして今川義元の部下をやってた徳川家康も独立し、表舞台に登場する。
後に三傑と言われ歴史を動かしていく二人の歴史が今ここから始まった。
とりあえず、織田信長が歴史の表舞台に登場するきっかけとなった戦いが桶狭間の戦いです。
そりゃあ信長から見て圧倒的格上の相手を倒したんですから注目を浴びます。
しかし、実は桶狭間の戦いが起こった場所がどこなのかはまだ確定してないんです!
ここ豊明市にも隣の名古屋市にも古戦場跡があるのです。
こんなに有名なのに謎に包まれていて、まさにミステリーですね。
ここ豊明市の古戦場には、、、
今川義元の霊が祀られているお墓や
今川義元が馬を繋いだとされるねずの木があります。
今川義元自身は豊川市にある大聖寺に眠っています。
せっかく桶狭間の古戦場を巡るならここ豊明市も名古屋市も両方見ておきたいですね。
東海道五十三次を歩く!「一里塚の木はオーラが違う!」
ということで一旦休憩。
まさか抹茶味のピノが売っているなんて。
美味しそう…
しっかり休憩して次に向かったのは名古屋市にある鳴海宿。
昔の町並みが残っていました!
古い町並みの先には有松一里塚がありました。
現代風に復元された一里塚のようです。
現代に一里塚があったらこんな感じって感じがする!
常夜燈もありました。
旅人の目印であり、安全と火除けの祈願として存在していたんです。
江戸時代は火事が多いですからね。
こっちの笠寺一里塚は木がすごいです!
何百年も生きてますよオーラが全開でした。
迫力がすごい…!
桜と橋が最高にマッチしてます。
ここは今川の人質だった織田信広(信長の兄)と織田の人質だった竹千代(徳川家康)が人質交換された場所です。
江戸幕府を開いた徳川家康も幼い頃は苦労の連続でした。
東海道五十三次を歩く!「熱田神宮と東海道五十三次」
そしてそして!
ついにやってきました。熱田神宮のある宮宿です!
さっそく熱田神宮に行きました。
※熱田神宮とは…
三種の神器の1つ「草薙剣」を祀っている神社。
織田信長は桶狭間の戦いの前にここで戦勝祈願して勝利を収めた。
草薙剣といえばこの日も草薙というワードに出会いました。
ここでお参りを済ませて、東海道五十三次の絵の場所を探しに神主さんに聞きました。
出典:Wikipedia
あの〜。この絵の場所って熱田神宮だと思うんですが、この赤い鳥居は熱田神宮にありますか?
無いね。昔から赤い鳥居は無いよ!でも場所的には見た感じ海沿いだね。だから南鳥居の方だと思うよ。
実は東海道五十三次は全部実際の風景ではなく、誇張していたり、イメージで書いていたりする絵もあるのです!
しかも、熱田神宮のある場所は昔は岬だったようで、周りは海だったんです!
めちゃくちゃ驚きの連続だったんですが、一番驚いたのは神主さんの知識量。
東海道五十三次の絵を見ただけで、海沿いと分かるのがやばいです。
僕には絵を見て海沿いなんて全く分からないです。
ということで東海道五十三次の場所と思しきところで写真をパシャり。
歌川広重は空中に浮いて絵を描いたのかってくらい鳥居が高い位置から描かれてますが、僕には無理でした。
【熱田神宮へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「七里の渡し」
今日最後にやってきたのは七里の渡し跡です。
先ほども言った通り、昔ここら辺は海だったので隣の桑名宿から船を使って渡っていました。
江戸時代には参勤交代で東海道を使う大名たちは船を使って七里の船旅をしていました。
歩き疲れた人にはありがたい休憩タイムですね。
その船着場がここです。
常夜燈(江戸版街灯)や時の鐘(時計)が復元されていて、当時の港っぽい雰囲気が出てました。
夜景もまぁまぁ綺麗でした。
僕は船なんてないので歩いて迂回です(白目)
今日は約35km歩き、ここ名古屋市まで歩きました!
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こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は11日目愛知県の豊橋市からのスタートです。
前回の10日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「出世とべっぴんの吉田宿」
今日は吉田宿にあるここからのスタートです。
そう吉田城です!
今は写真の櫓が残っているくらいですが、その櫓の横から吉田大橋と豊川を一望できる絶景スポットですよ!
元々は今川チームの人が城主でしたが、桶狭間の戦いで大将の
江戸時代には東海道の重要な防衛拠点として機能してました。
ここの城主になった人がのちに江戸で幕府の老中(めっちゃ偉い人)とか
出世城とも言われていました!
全国の出世を夢見る方は行ってみてはいかがでしょうか!
【アクセス】
みなさん。「べっぴんさん」という言葉を聞いたことはありますか?
べっぴんさんとは美人という意味で使われていますよね。
でも実は元々は美人という意味じゃなかったのは知ってましたか?
べっぴんさんの語源となった場所がここ豊橋にはあります。
それがこのうなぎ屋さんの「丸よ」です!
江戸時代のころは本陣(大名や幕府のお偉いさんクラスの宿泊施設)、明治時代は割烹料理屋の
割烹料理の織清こそ丸よのルーツのお店です。
織清でウナギの提供を試みたのですが、思いの外人気が出ました。
何か文字を書いた看板を出そうと織清の主人は友人の
この渡辺小崋は渡辺崋山の息子です。
※
江戸時代の終わり頃の武士。田原藩の家老(藩という会社のNo.2)。
アメリカ船が「日本人流れてきてたから拾って返しにきたよ!」と日本の漂流民を返還しに江戸に近づいたら発砲され退去させられたモリソン号事件。
この事件は外国船がやってきたら問答無用で大砲ぶっ放せ!というやべぇ法令が出ていた時期に船が来てしまったために起きた。
こういった江戸幕府の対外政策に「外国人に厳しすぎ!」と批判して『慎機論』を書いたら江戸幕府に処罰された。
すると渡辺小崋は「
うなぎという文字が全くない三文字でした。
とりあえずその看板を掲げたら、、、
奇妙でむしろ注目を集めたのか評判になり、「頗別品」とうなぎが全国に広まりました。
他に類がないほど美味しいということで別品としていたつもりが、いつの間にか美人に対しても「すこぶる別品」というようになりました。
今もうなぎ屋「丸よ」として残っているので、すこぶる別品なうなぎを食べに訪れてみてはいかがでしょうか!
【うなぎ 丸よへのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「姫街道は姫の通り道」
吉田宿を堪能し、先に進んでいると、、、
ニワトリが二匹放し飼いされてたり!
ニワトリが普通に放し飼いされてるのすごい…
ゴミ袋がピンク色だったり!
ピンクはおしゃれ!
僕の知ってる世界とは違うので面白かったです。
こちらは追分。
道が2つに分かれてる所のことを追分といいます。
ここでは姫街道への道がある追分でした。
※姫街道とは…
東海道の上を通る脇街道。
幕末の頃にこの名称になったらしい。
名前の由来は諸説ある。
関所の監視が厳しい新居宿を通らずに済む道であり、「今切」といういかにも縁起の悪い場所も通らずに済むため女性がよく使ったというのが由来の1つの説。
幕末に姫街道となったのは幕府の権力が落ちて監視の目が緩くなったからと言われている。
僕が10日目に通った場所を通らずに済む道が姫街道ということです。
それだけ新居宿の関所が厳しかったということでしょう。
東海道五十三次を歩く!「最近まで営業してた江戸時代の旅館」
そしてやってきたのは御油宿。
昔の町並みが少し残ってました。
ここの松並木も江戸時代の雰囲気があっていいですね。
松並木を歩き切ったらすぐに次の宿場が現れました。
赤坂宿です。
さすがに早すぎでしょ…
もはやコンビニの気分でした!
ここもちょこっと古い町並みが残ってましたよ。
特にすごかったのはこの旅籠「大橋屋」です。
この旅籠はなんと。
なんと!
つい最近まで営業してたんです!
ええええええ!
大橋屋は1649年の創業から2015年まで営業してました。
東海道で唯一21世紀まで残った旅籠でした。
出典:Wikipedia
東海道五十三次でも大橋屋(内部)が描かれています。
泊まってみたかった…
実は定期的に内部公開してるみたいなので、公開してる時を狙って観光に来るのもいいかもです!
【アクセス】
東海道五十三次を歩く!「藤川宿には柴田勝家の歴史が続いてる!」
次にやってきたのは藤川宿です。
とてもわかりやすい入り口がありました。
最初に目が止まったのは陣屋跡!
陣屋とはいわゆる役所のことです。
ただの跡だと思ったら大間違いです。
この写真の高札(木の掲示板)をゆっくり読んでみてください!
ほら!
※
戦国時代の武将で鬼柴田といい恐れられた猛将。織田信長の部下の一人。
信長が本能寺の変で倒れた後に後継者争いで豊臣秀吉に敗れた。
戦国時代に散った猛将の子孫がこの役所でしっかり働いていたんです!
柴田の歴史がまだここに残っていたと知り、マジで感動しました。
すげぇと思いながら視線を下にずらすと、
・
・
・
花壇でした!
柴田さんの役所は花壇でした。
今までの感動を返せ!
こちらは
綿棒みたいな名前やな…
棒鼻とは宿場の出入り口のことです。
出典:Wikipedia
東海道五十三次でも描かれており、そのおかげで再現されました。
どうりで今までの宿場にはなかったわけだ。
今や藤川宿の象徴的スポットです。
藤川宿もさっきの御油と赤坂と同様にちょこっと古い町並みが見えました。
東海道五十三次を歩く!「岡崎城と地獄の二十七曲がり」
時間は17時頃。
ついに岡崎城のある岡崎宿に到着です。
岡崎城は徳川家康が生まれた城として有名ですね。
さすがは徳川家康生誕の地です。老舗のお店がたくさんありました。
この「備前屋」というお店は菓子屋で創業は1782年です。
途中で気付いたんですが、掛川の時と同じく道をめっちゃ曲がるんです!
どうやらここ岡崎は二十七曲がりといい、掛川の4倍ほど曲がるようです。
マジで鬼畜でした!
誰だこんなに曲げたのは!
こいつです。
※田中吉政とは…
戦国時代の武将で、豊臣秀吉の部下。
東海道を岡崎の城下町に引き入れるために二十七曲がりを造った。
めっちゃ曲がってるので防衛力はすごく、曲がってる分距離も伸びるので色んな商家が並んで繁栄しました。
だから老舗がたくさんあるのか!
二十七曲がりはメリットしかない素晴らしいものだったのです!
文句言ってすいませんでした!
さすがに曲がりすぎなのか、二十七曲がり専用の標識がいたるところにありました。
ここを歩く人はこの標識を見ながら歩けば迷子になることはほぼないので安心してください!
全て曲がり終えたらもう18時半ですよ。
そんな距離なかったはずなのにいつの間にか日が沈んでました。
そしてここが
有名な八丁味噌の由来となった地名です。
その八丁味噌の始まりのお店が近くにあったのですが、旧東海道を外れていて、時間も無かったので寄れませんでした。
ここ八帖村には創業1337年と1645年の味噌屋さんがありますよ。
1337年ってめっちゃ古い…
いわゆる室町時代初期ですね。
最後になんとか岡崎城が撮れました。
遠くに見える緑色に光ってるのが岡崎城です。
今日は約36km歩き、ここ岡崎まで来ました。
【12日目の記事】
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元号のあれこれを歴史好きが平成から令和に変わる今教える!
こんにちは。平成最後の日に何しようか考えながらとりあえずこの記事を書いているしょう(@shos_history)です。
僕は平成最後に東海道五十三次を歩くということをやってのけたので、既に悔いはないのですが、それでも平成最後の日ってザワザワしますよね。
皆さんは平成最後に何をしましたか?
今回は元号の歴史について軽く触れながら平成から令和に変わるこの瞬間に思うことを話します。
元号とは?
元号とはその時代の称号的なものです。
昔は「災害が多く不吉だから変えよう!」とか「縁起がいいから変えよう!」とか、時の権力者の都合で改元されることが多々ありました。
今は今は一世一元制によって天皇が変わった時に元号が変わるのが普通になりました。
※一世一元制とは…
明治はじめに制定された制度で、「天皇一代につき1つの元号にしよう!」というもの。
そのため、それ以前はしょっちゅう改元されていてたくさん元号があったものの、明治時代以降は大正、昭和、明治とコンパクトになっている。
元号と時代区分の違い!
僕らは縄文時代とか鎌倉時代とか江戸時代って頭の中にありますが、これは元号ではなく時代区分です。
僕らが分かりやすいようにわざとそう呼んでいるだけなのです。
なので江戸3年とか鎌倉15年とか存在しないです。
じゃあ鎌倉時代とか江戸時代とか何でその名前がつけられたの?となりますよね。
実は政権があった場所なんです!
鎌倉時代は源頼朝が鎌倉に幕府を開いていたからですし、江戸時代は徳川家康が江戸に幕府を開いていたからです。
安土桃山時代なんて、織田信長の安土城のあった安土、豊臣秀吉の伏見城のあった桃山から名前がつけられているんです!
えええ!初耳!!!
実は僕もさっきこんな単純なことを知って驚いてました。
政権が地方に乱立した戦の時代は戦国時代ですし、縄文時代は縄文土器から来てます。
なので早い話、江戸時代に行って「今江戸時代?」って聞いても
「お前頭おかしいだろ、今は元禄だろ!」
って言われます。
絶対言われます。
そしてこうなります!
いゃおかしいだろ!
当時の人たちは江戸時代なんて言わないですし、思ってもいないですからね。
元号使ってるの日本だけ!
中国から伝わって導入して以来ずっと使っている「元号」。
この元号を使ってるのは今や日本だけです。
昔は中国はもちろん朝鮮王朝やベトナムも使ってました。
中国では清王朝が倒れてから使わなくなったし、朝鮮も使ってないし、ベトナムもベトナム帝国が倒れてから使っていません。
そもそも元号は「皇帝が時を支配する」思想から生まれたもののようで、権力の象徴なんです。
要するに、、、
皇帝的なボス的な人がトップにいる国で使われていたのが元号だったのです!
皇帝トップの国じゃなくなれば元号を使う意味ないので、使わなくなるというわけです。
平成から令和へ元号が変わる!
僕が生まれた平成時代がついに終わります。
皆さんも色んな思い出がある時代だと思います。
次の元号は令和です。
この元号が変わる瞬間はまさにとても貴重な歴史的瞬間です。
平成時代は二度と訪れないので、せっかくなら何か思い出づくりをしておきましょう!
平成最後になにやった?と聞かれて、
「ああ、○○やったよ!(ドヤ)」
と言えるといいですね。
とりあえず僕は今から平成の名曲を歌ってきます!
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【東海道五十三次を歩く!10日目】浜名湖は昔はちゃんとした湖だった!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は10日目静岡県の浜松市からのスタートです。
前回の9日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「浜松城は見えないけど松並木は見れた」
今日のスタートはここから。
出典:Wikipedia
昔はここから浜松城が見えたり松の木があったりしたのですが、今は何にも見えません。
唯一の面影は奥の道路沿いにある高札(木の掲示板的なやつ)ですかね。
こちらは
立場とは江戸時代に隣の宿場(サービスエリア)が遠い場合に途中の道に置かれた休憩施設です。
マラソン大会で途中で水とか飲めるあの感じです。
黙々と歩いていると見えてきたのは松並木。
江戸時代に1400本近くが植えられていた通りで、今は300本ほどが残っています。
昔ほどの松は残っていませんが、そこに確かに当時の面影を感じることはできました。
東海道五十三次を歩く!「波の音は浪小僧の仕業」
この太鼓を叩いてる男の子知ってますか?
太鼓の達人?
いいえ違います。
知るか。
この付近の伝説に登場する人です。人かどうかは分かりません。
昔々のある日のお話。
漁師たちは
「なんじゃこれ!」
と気味悪がって、小僧を殺そうとします。
すると小僧は「ちょ待てよ。俺は海の底に住む浪小僧!命助けてくれたら、恩返しとして海が荒れたり、風が強くなったりする時に海の底で太鼓を叩いて知らせるぜ!」と言います。
それ木村t…
それを聞いた漁師たちが小僧を海に戻しました。
それ以来、天気が変わる時には波の音がするようになったと言います。
こいつあれだ。太鼓の達人やらせたら絶対パーフェクトでるやつだ。
この話は8日目に登場した小夜の中山の夜泣き石と同様に遠州七不思議と呼ばれています。
急に太鼓の達人やりたくなったので今度やってきます。
東海道五十三次を歩く!「浜名湖は昔はちゃんとした湖だった!」
そして急に海が見えてきました。
ここが有名な浜名湖です!
そして浜名湖に面しているこの空間が江戸時代に
さっきのこの写真にも写ってるように今でも船着場になってるのが感慨深いです。
さて、ここ浜名湖は名前に湖ついてるくせに湖っぽくないことに気付きましたか?
見ての通り完全に見た目が海です!
でも実は昔はイメージ通りの湖だったんですよ。
大昔は浜名湖は淡水湖といって塩分の少なめの湖でした。
時は1498年の戦国時代初期。
南海トラフ大地震が起こり、浜名湖と遠州灘(要は海)を区切っていた砂の堤防が切れてくっついてしまいました。
それから浜名湖は汽水湖という塩分が少ない淡水湖なんだけど塩分が流入しちゃってる湖になりました。
ちなみに琵琶湖は昔の浜名湖と同じ淡水湖です。
昔は都が奈良とかに置かれていたので、
都からみて近い淡水湖の琵琶湖があるところを近い淡水の海=
都からみて遠い淡水湖の浜名湖があるところを遠い淡水の海=
と言ったのが近江と遠江の由来です。
途中まで理科の授業かと思ってた。
もちろん最後は歴史に持っていきます!
東海道五十三次を歩く!「新居宿は江戸時代の歴史がいっぱい」
浜名湖を渡りきると見えてくるのは新居宿です。
関所が復元されてました!
それもめっちゃ立派!
この関所も箱根の関所同様に厳しい取り締まりが行われていた関所です。
江戸時代に僕が通ろうとすれば間違いなく通れなかったでしょう。
ニートがなにしてる?って言われそう…
その前に大名行列を横切って殺される…
関所の先には高札が復元されてました。
しかも内容もしっかりと当時のままっぽいです。
料金表とか
火事が起きた場合はどうするか
とか書いてありました。
火事の時は「刀は鞘に入れておけ」はワロタw
江戸時代ならではの注意ですね。
向かいには紀伊国屋がありました。
本屋かな?
どうやら紀伊藩(御三家の1つですごい家)御用達の宿泊施設のようです。
こちらは
江戸時代は旅行者のために馬とか提供するレンタカー的なものがありました。
そのレンタカー用の馬を置いていた場所が寄馬です。
要はレンタカー屋さんの駐車場ですね。
新居宿にはこんな感じで江戸時代の歴史がいっぱいでした!
東海道五十三次を歩く!「土ばかりの景色を見させられるはキツイ」
出典:Wikipedia
ここ潮見坂は東海道五十三次でも描かれている場所で今も変わらない景色を見ることができます。
本当だ!全然変わらない!
絶景を見た後に見る景色はこちらです。
はい。一面全てが土です。
清々しいほどの黄土色ですが、景色の変わらない旅ほどキツいものはありません。
このあたりは昔からこんな感じだったようです。
歴史が変わらないのはいいことだけど、これは少しは変わっていい…
土景色地獄の間にいつの間にか愛知県に入っていたようです。
二川宿に入る前にこの橋を渡ります。
筋違橋です。
名前的にこの橋で筋違いなことでもあったのでしょう。
さすがに適当すぎない?
二川宿は昔の街並みを残している宿場でした。
そしてこのあたりで暗くなってきました。
いい夕焼けですね。
思わず撮ってしまいました。
東海道五十三次を歩く!「愛知県といえば味噌カツ」
夕飯何にしようかと調べていると「味噌カツ」というパワーワードを見つけたので、即座に向かいました。
味噌カツとは豚カツに味噌ダレがかかった料理です。
愛知県というよりは名古屋名物となっている味噌カツですが、歴史は意外と新しいです。
諸説ありますが、戦後のある屋台で客がつまんでいた串カツをどて鍋(もつとか牛すじを味噌で煮込むやつ)に入れて食べたら美味しかったのが始まりという説が有名です。
愛知県は八丁味噌で有名で、その地にいた徳川家康も味噌を好んでいたことからもわかる通り、愛知と味噌の歴史は深いのです。
岡崎市には八丁味噌始まりのお店もありますよ。
ということで歴史を知ったところで味噌カツ定食を食べてみました。
うまいです!
味噌の味が濃いのでご飯が無限に進みます。
もはやマジックです!
今日は約38km歩き、ここ豊橋で終了です。
【11日目の記事】
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