【東海道五十三次を歩く!11日目】道を曲げてるのはただの嫌がらせではない!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は11日目愛知県の豊橋市からのスタートです。
前回の10日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「出世とべっぴんの吉田宿」
今日は吉田宿にあるここからのスタートです。
そう吉田城です!
今は写真の櫓が残っているくらいですが、その櫓の横から吉田大橋と豊川を一望できる絶景スポットですよ!
元々は今川チームの人が城主でしたが、桶狭間の戦いで大将の
江戸時代には東海道の重要な防衛拠点として機能してました。
ここの城主になった人がのちに江戸で幕府の老中(めっちゃ偉い人)とか
出世城とも言われていました!
全国の出世を夢見る方は行ってみてはいかがでしょうか!
【アクセス】
みなさん。「べっぴんさん」という言葉を聞いたことはありますか?
べっぴんさんとは美人という意味で使われていますよね。
でも実は元々は美人という意味じゃなかったのは知ってましたか?
べっぴんさんの語源となった場所がここ豊橋にはあります。
それがこのうなぎ屋さんの「丸よ」です!
江戸時代のころは本陣(大名や幕府のお偉いさんクラスの宿泊施設)、明治時代は割烹料理屋の
割烹料理の織清こそ丸よのルーツのお店です。
織清でウナギの提供を試みたのですが、思いの外人気が出ました。
何か文字を書いた看板を出そうと織清の主人は友人の
この渡辺小崋は渡辺崋山の息子です。
※
江戸時代の終わり頃の武士。田原藩の家老(藩という会社のNo.2)。
アメリカ船が「日本人流れてきてたから拾って返しにきたよ!」と日本の漂流民を返還しに江戸に近づいたら発砲され退去させられたモリソン号事件。
この事件は外国船がやってきたら問答無用で大砲ぶっ放せ!というやべぇ法令が出ていた時期に船が来てしまったために起きた。
こういった江戸幕府の対外政策に「外国人に厳しすぎ!」と批判して『慎機論』を書いたら江戸幕府に処罰された。
すると渡辺小崋は「
うなぎという文字が全くない三文字でした。
とりあえずその看板を掲げたら、、、
奇妙でむしろ注目を集めたのか評判になり、「頗別品」とうなぎが全国に広まりました。
他に類がないほど美味しいということで別品としていたつもりが、いつの間にか美人に対しても「すこぶる別品」というようになりました。
今もうなぎ屋「丸よ」として残っているので、すこぶる別品なうなぎを食べに訪れてみてはいかがでしょうか!
【うなぎ 丸よへのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「姫街道は姫の通り道」
吉田宿を堪能し、先に進んでいると、、、
ニワトリが二匹放し飼いされてたり!
ニワトリが普通に放し飼いされてるのすごい…
ゴミ袋がピンク色だったり!
ピンクはおしゃれ!
僕の知ってる世界とは違うので面白かったです。
こちらは追分。
道が2つに分かれてる所のことを追分といいます。
ここでは姫街道への道がある追分でした。
※姫街道とは…
東海道の上を通る脇街道。
幕末の頃にこの名称になったらしい。
名前の由来は諸説ある。
関所の監視が厳しい新居宿を通らずに済む道であり、「今切」といういかにも縁起の悪い場所も通らずに済むため女性がよく使ったというのが由来の1つの説。
幕末に姫街道となったのは幕府の権力が落ちて監視の目が緩くなったからと言われている。
僕が10日目に通った場所を通らずに済む道が姫街道ということです。
それだけ新居宿の関所が厳しかったということでしょう。
東海道五十三次を歩く!「最近まで営業してた江戸時代の旅館」
そしてやってきたのは御油宿。
昔の町並みが少し残ってました。
ここの松並木も江戸時代の雰囲気があっていいですね。
松並木を歩き切ったらすぐに次の宿場が現れました。
赤坂宿です。
さすがに早すぎでしょ…
もはやコンビニの気分でした!
ここもちょこっと古い町並みが残ってましたよ。
特にすごかったのはこの旅籠「大橋屋」です。
この旅籠はなんと。
なんと!
つい最近まで営業してたんです!
ええええええ!
大橋屋は1649年の創業から2015年まで営業してました。
東海道で唯一21世紀まで残った旅籠でした。
出典:Wikipedia
東海道五十三次でも大橋屋(内部)が描かれています。
泊まってみたかった…
実は定期的に内部公開してるみたいなので、公開してる時を狙って観光に来るのもいいかもです!
【アクセス】
東海道五十三次を歩く!「藤川宿には柴田勝家の歴史が続いてる!」
次にやってきたのは藤川宿です。
とてもわかりやすい入り口がありました。
最初に目が止まったのは陣屋跡!
陣屋とはいわゆる役所のことです。
ただの跡だと思ったら大間違いです。
この写真の高札(木の掲示板)をゆっくり読んでみてください!
ほら!
※
戦国時代の武将で鬼柴田といい恐れられた猛将。織田信長の部下の一人。
信長が本能寺の変で倒れた後に後継者争いで豊臣秀吉に敗れた。
戦国時代に散った猛将の子孫がこの役所でしっかり働いていたんです!
柴田の歴史がまだここに残っていたと知り、マジで感動しました。
すげぇと思いながら視線を下にずらすと、
・
・
・
花壇でした!
柴田さんの役所は花壇でした。
今までの感動を返せ!
こちらは
綿棒みたいな名前やな…
棒鼻とは宿場の出入り口のことです。
出典:Wikipedia
東海道五十三次でも描かれており、そのおかげで再現されました。
どうりで今までの宿場にはなかったわけだ。
今や藤川宿の象徴的スポットです。
藤川宿もさっきの御油と赤坂と同様にちょこっと古い町並みが見えました。
東海道五十三次を歩く!「岡崎城と地獄の二十七曲がり」
時間は17時頃。
ついに岡崎城のある岡崎宿に到着です。
岡崎城は徳川家康が生まれた城として有名ですね。
さすがは徳川家康生誕の地です。老舗のお店がたくさんありました。
この「備前屋」というお店は菓子屋で創業は1782年です。
途中で気付いたんですが、掛川の時と同じく道をめっちゃ曲がるんです!
どうやらここ岡崎は二十七曲がりといい、掛川の4倍ほど曲がるようです。
マジで鬼畜でした!
誰だこんなに曲げたのは!
こいつです。
※田中吉政とは…
戦国時代の武将で、豊臣秀吉の部下。
東海道を岡崎の城下町に引き入れるために二十七曲がりを造った。
めっちゃ曲がってるので防衛力はすごく、曲がってる分距離も伸びるので色んな商家が並んで繁栄しました。
だから老舗がたくさんあるのか!
二十七曲がりはメリットしかない素晴らしいものだったのです!
文句言ってすいませんでした!
さすがに曲がりすぎなのか、二十七曲がり専用の標識がいたるところにありました。
ここを歩く人はこの標識を見ながら歩けば迷子になることはほぼないので安心してください!
全て曲がり終えたらもう18時半ですよ。
そんな距離なかったはずなのにいつの間にか日が沈んでました。
そしてここが
有名な八丁味噌の由来となった地名です。
その八丁味噌の始まりのお店が近くにあったのですが、旧東海道を外れていて、時間も無かったので寄れませんでした。
ここ八帖村には創業1337年と1645年の味噌屋さんがありますよ。
1337年ってめっちゃ古い…
いわゆる室町時代初期ですね。
最後になんとか岡崎城が撮れました。
遠くに見える緑色に光ってるのが岡崎城です。
今日は約36km歩き、ここ岡崎まで来ました。
【12日目の記事】
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