歴史を楽しく学べる寺子屋

歴史を楽しく学べる寺子屋

歴史に少しでも興味を持ってもらったり、面白いと思ってもらえるように歴史を話すブログです。

今と昔では寿命という人生の長さが違うから人の動きが違うのかもしれない!

こんにちは。しょう(@shos_history)です。

 

最近YouTuberデビューしたのでまだチャンネル登録していない方はぜひ動画を見て高評価を押してからチャンネル登録してください!(切実) 

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ということでブログをやったり、図解を作ったり、twitterやったり、YouTubeやったりと、めちゃくちゃ動き出している僕ですが…

 

昔の人たちはもっと動いていたのです!

 

織田信長豊臣秀吉徳川家康坂本龍馬西郷隆盛など歴史上の人物は現代人とは比べ物にならないくらい動き回っていました。走り回ってました。

 

動き回っていたからこそ、彼らの生きていた時間は濃く、濃いためにその人生は語り継がれたり、時にはドラマとして放送されたり、本にもされています。

 

じゃあ、なんで昔の人は現代人以上に動き回っていたのか?とふと疑問に思ったので話していきます。

 

寿命という人生が短い戦国時代の人はすごい動き回った!

 

織田信長が「人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」と歌ったエピソードが有名な戦国時代。

 

このエピソードから50年くらいが戦国時代の寿命なのか?と思いがちですが、そもそもこの歌自体信長が作詞作曲したわけではないです。(作者は不明)

 

さらにいうと作成された時代も不明です。

 

人間50年というのは当時人の一生は50年くらいだと思われていたそうです。

 

あくまで信長の場合は「短い人生だから全力で生きる!」という思いを込めて歌ったんだと思います。

 

じゃあ戦国時代の平均寿命は?

 

実は30歳くらい!

 

短すぎる…

 

今と違って医療技術が発達してないし、戦争ばっかりの環境だったので仕方ないです。

 

ちなみに人間50年になったのは戦後です。

 

めっちゃ最近!

 

 

 

平均寿命が30歳くらいだった戦国時代には多くのドラマがあり、有名な人物も多いですよね?

 

 

それはなぜか?

 

 

もちろん動き回っていたからです。

 

 

なぜそんなにたくさん動き回っていたのか?

 

 

それは寿命が短い=人生が短いので、動かないとあっという間に人生が終わるからです。

 

今が25歳だとするともう5年しか残っていません。

 

40歳まで人生の延長戦があったとしても半分もないです。

 

そう考えたら冷静に考えてやばくないですか?

 

そりゃあ動きたくなくても動きますよね。

 

寿命という人生が長い現代の人は昔ほど動き回らない!

 

現代の平均寿命は医療技術の発達のおかげで80歳くらいです。

 

戦国時代から比べたら倍以上長寿になってます。

 

でも戦国時代の倍以上に人が動き回っているように思えますか?

 

流石に倍以上はないですよね?

 

もちろん動いている人はいますが、戦国時代よりは少ないと思います。

 

それはなぜか。

 

 

 

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人生に余裕があるからです。

 

今25歳だとしても55年も残ってます。

 

2倍以上も人生が残っているのです。

 

そりゃあ少しくらい余裕かましてても大丈夫です。

 

長い人生も短い人生も活かすのは自分次第!

 

寿命は環境や医療技術によって変わるのは当たり前です。

 

戦国時代であれ現代であれ、長くても短くてもその人生を活かすのは自分次第だということは忘れないでください。

 

もしやりたいことがあるなら動くことは大事ですが、背伸びをせず自分のペースで動きましょう!

 

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【これを読めばコンビニの歴史が網羅できる!】江戸時代と現代のコンビニ!

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こんにちは。しょう(@shos_history)です。

 

今や身近な存在となっているコンビニ。

 

一週間のうち一日は訪れませんか?

 

訪れませんか。そうですか。

じゃあこの話は終わりです。

 

 

 

なんてことにはなりません!

訪れてない人も訪れていることにしておいてください!

 

コンビニがいつできたのか知りたくないですか?

 

知りたくないですか。そうですか。

じゃあこの話は終わりです。

 

 

なんてことにはなりません!

知りたいということにしておいてください。

 

ということで今回は身近なお店であるコンビニの歴史を江戸時代と現代に分けて軽く見ていこうと思います。

 

江戸時代にあったコンビニの歴史!「番小屋ばんごや

 

江戸時代には参勤交代や火事や出稼ぎの影響で江戸の男率が多く、おかず屋とか飲食店が登場しました。

shoooy.hatenablog.com

 

shoooy.hatenablog.com

 

電子レンジとかもちろんないので、外で温かい食べ物が欲しかったらそういうところで買って食べます。

 

コンビニがない時代でしたが、コンビニのようなものはあったようです。

 

 

それが「番小屋」です!

 

江戸時代の町には出入り口に町の治安を守る番小屋がありました。

 

いわゆる交番ですね。

 

ただ警備しているだけじゃ足りないと思ったのか、日用品(靴とか)やアメや干菓子(金平糖とか八つ橋などの水分の少ない和菓子のこと)などの和菓子を販売していたようです。

 

まさにコンビニだ…

 

どうやらファミチキとかは売ってないようなので、江戸時代の人たちがファミチキを知らないのがかわいそうです。

 

いゃ当たり前でしょ…

 

現代のコンビニの歴史!「ファミリーマート

 

帝京平成大学のここがすごい!」とか「運転免許なら合宿免許WAO!」など頭に残ってしまうくらい店内BGMの癖が強いファミリーマート

 

このコンビニの歴史は今や有名な大型スーパーの西友の小型店舗の実験として1973年に埼玉県狭山市の第一号店としてオープンしました。

 

だから無印の商品が多いのかも!

 

今は緑と青のロゴが目印ですが昔は「太陽と星のマーク」という太陽と星に顔が書かれたロゴが使われていました。

 

今でもコンビニの入り口に貼られている店舗があるようです。

 

2000年までは従業員はエプロンを来ていました。

 

弁当屋さんみたい…

 

我らが「ファミチキ」と「スパイシーチキン」の歴史は意外と新しく、ファミチキは2006年、スパイシーチキンは2001年に発売されました。

 

まだまだ新米チキンだった!

 

ってかスパイシーチキンの方が先輩だったのか。

 

現代のコンビニの歴史!「セブンイレブン

 

名前がかっこいいセブンイレブン

 

ここだけ適当すぎない?

 

このコンビニの歴史は遠くアメリカの小さな町の氷売りから始まります。

 

当時はまだ一般過程に電気冷蔵庫が普及していなかったため、冷蔵庫に入れる氷が必需品でした。

 

どういうこと?

 

昔は冷蔵庫に氷を入れて、その氷で中のものを冷やしたりしてたんです。もちろん長持ちはしないので長期保存は無理ですが。

 

ちなみに日本で電気冷蔵庫が普及し出すのは1945年くらいで、爆発的に普及するのは三種の神器と言われた1950年以降の高度経済成長の時です。

 

アメリカで氷を販売していたジョンはお客さんから

「氷を売ってくれるのは便利だけど、氷以外も売ってくれるともっと便利かも!」

という無茶振りのような意見をもらい、卵とか牛乳とかも取り扱い始めました。

 

1946年に朝7時から夜11時まで営業する店であることから店名を「7-ELEVEN」にしました。

 

昔は24時間営業じゃなかったんだね!

 

1974年に日本の東京都江東区豊洲に第一号店がオープンしました。

 

現代のコンビニの歴史!「ローソン」

 

からあげクンが食べたくなったら絶対に行くローソン。

 

このコンビニの歴史もアメリカから始まります。

 

アメリカ初のコンビニ多いな!

 

1939年、J.J.ローソンという人が牛乳を販売するお店をしていました。

 

ここの牛乳は新鮮で美味しいと評判だったようです。

 

勘の良い方ならもうお気づきでしょう。

 

今のローソンの名前とわけわからない牛乳瓶のようなマークはここから来ているのです。

 

日本では1975年に大阪府府中市南桜塚に第一号店がオープンしました。

 

最初はハムやソーセージといった加工肉などが多く置かれていてアメリカ風でした。

 

もはやお肉屋さんだ…

 

江戸時代も現代もコンビニの歴史は面白い!

 

江戸時代にもコンビニもどきは存在していました。

 

現代によく見るコンビニたちの歴史もとても奥が深かったですね。

 

セブンイレブンもローソンも元々は氷を売っていたり牛乳を売っていたり、コンビニとは違うことをしていました。

 

しかもコンビニはアメリカ初が多いです。

 

これでみなさんもコンビニの歴史を知ったので、ローソンに行ったら「あ、J.J.ローソンのお店だ!」とか言ってみると面白いかもしれませんね。

 

いゃ、何言ってるのお前?ってなるぞ?

 

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接客経験5年以上で歴史好きの僕が気づいた!一定層に老害が多い理由!

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こんにちは。しょう(@shos_history)です。

 

バイトを初めてやってから今日までだいたい5年以上は接客業をやっていたため「接客界のカリスマ」と言っても過言ではない自分にもある大きな謎がありました。

 

マイルドセブンって言ってるだろ!」

 

いやそんな名前のタバコ知らない…

 

どうやらセブンスターというタバコの昔の呼び名らしい…

 

「もう開けてしまったけど、もちろんここなら返品できるよね?」

 

いや無理です…

 

食べたラーメンを不味いからって返却するできないでしょ…

 

他にも色々ありますが、、

 

一定の層で理不尽にキレてくる人がいるという謎です!

 

この謎はおそらく全人類が気になっている謎だと思います。

 

巷でいわゆる老害」とも言われている彼らはどうして理不尽にキレるんだろうかと考えました。

 

自分の経験や歴史から掘り下げていたら衝撃の事実に気付いてしまったのです!

 

一定層に老害が多い理由!

 

一般的に60歳以上のおじいさん層に「老害」と呼ばれる人が多い気がします。

 

「店側が悪い」

 

「パチンコで負けたから」

 

「もともとそういう性格」

 

といった環境設定は今回はなしで考えてみましょう。

 

あくまで純粋な老害とします。

 

純粋な老害ってなに?

 

一定層に老害が多い理由【歴史編】

 

おじいさんたちは「歳をとっている」という大きな共通点であり僕らとの唯一無二の相違点を持っています。

 

歳をとっているということは、僕らとは生きていた時代が違うということです。

 

ということはつまり歴史に答えがあるのではないかと思い、コンビニを中心に調べてみました。

 

今の日本にある有名なコンビニといえば、セブンイレブンファミリーマート、ローソン、ミニストップとかですよね。

 

セブンイレブンは1927年にアメリカで生まれた氷販売店が始まりで、日本に一号店がやってきたのは1974年のことです。

 

ファミリーマート西友というスーパーから小売店として登場したのが始まりで、1973年に埼玉県で第一号店がオープンしました。

 

ローソンは1939年にアメリカのJ.J.ローソンが牛乳販売店を開店したのが始まりで、1975年に大阪府で第一号店がオープンしました。

 

ローソンはイオン株式会社によって1980年に神奈川県でオープンしました。

 

コンビニ系はだいたい1970年半ばに日本に登場しだしたのです!

 

 

ここで考えてみましょう!

 

コンビニの登場を1975年とします。

 

いわゆるサービス業であるこれらのお店ではバイトを雇いますよね?

 

今60歳の人は1959年生まれ。 

就職する前の大学4年生が22歳くらい。

 

つまり1981年まではバイトをしている可能性があることになります。

 

60歳以上の人たちが1980年くらいまではバイトをやっていたとすると、コンビニのバイト経験をしていない可能性が高いんです。

 

コンビニが登場しだして5年経ってるかどうかなので。

 

70代になると1949年生まれなので、コンビニがやってきたときの年齢は26歳くらい。

 

もうコンビニのアルバイトを経験せずに就職していますね。

 

これらの歴史から導き出された仮説は「経験をしていないから理不尽にキレる。だから老害となる」です!

 

「経験をしていないからキレる」のはなぜか?

 

それを今度は「経験」から考えてみます!

 

一定層に老害が多い理由【経験編】

 

僕らは小さい頃から色んな場所や人に出会って色んな経験をしますよね?

 

例えば、コンビニに行っては店員の目の前で駄々をこねたり、車が近くにいるのに走れば大丈夫精神で走ったりしたことありませんか?

 

それらの感覚って自分が店員側や車を運転する側になるとやらなくなりましたよね?

 

むしろ相手の気持ちを考えるようになりましたよね?

 

経験したことによってその行為が「相手に悪い!」とわかるようになったからなんです。

 

車を運転するという経験から、目の前を急に横切る人をみたら「危ねぇな!」となりますよね?

 

だから車の目の前を強引に横切ることはしないはずです。

 

経験が自分を自制させるのです。

 

老害がコンビニとかサービス業で理不尽にキレるのは、そういう仕事をした経験がないからなのです!

 

歴史と経験から気づいた奇跡「経験は人を変える!」

 

なぜか一定の年齢層のおじいさんに老害が多い。

 

この疑問は僕は接客業を5年ほど続けていてずっとわからなかった問題でした。

 

でも車の免許をとって運転して経験して初めてその理由に気付きました。

 

完全に気づいて言語化できるようになったのは歴史をインプットするようになった最近ですが。

 

経験が人を変えるのは経験によって成長するからなのかもしれませんね!

 

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心霊スポットともいわれる平将門の首塚に行ってきたから紹介するよ!

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こんにちは。晒し首のしょう(@shos_history)です。

 

びっくりした…

 

将門の首ならぬ、(学生時代の)僕の首です。

 

東京都内に「平将門首塚」という場所があるのは知っていましたか?

 

あれでしょ?心霊スポットとかいわれてるところでしょ?

 

そうです。巷では心霊スポットと言われていますね。

 

実際どんな場所なのか軽く解説しながら実際に行ってきたので写真も交えて紹介していきます。

 

恐ろしいほど全然怖くないので怖いの無理な方も大丈夫な記事です。安心してください!

 

起きたら夜だったとかの方が怖いくらいには怖くないですよ。

 

余計分かりづらい…

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平将門首塚とは?

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将門の首塚とは、平将門の首を祀っているお墓のこと大手町から歩いて10分ほどのところにあります。

 

平将門平安時代に活躍していた豪族(地方の武士のような感じと思っておいてもらえればOK)です。

 

詳しくは後ほど記事にしますが、最終的に国と戦って負けて死んでしまいます。

 

そのあと歴史系作品によく出てくる晒し首(首だけ置かれるやつ)にされます。

 

 

 

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まさにさっきのこの写真!

 

今や誰もが知っている「晒し首」という刑を日本で最初に受けた人物は、この平将門と言われています。

 

ここからが伝承です。

 

将門の首が京都に晒されていたのですが、それから3日後に「俺の身体はどこだ?」とか言いながら関東に向かって飛んだといいます。

 

ええええ!!!怖すぎる…

 

そして首は色んなところに落ちたと言われていて、そのうちの1つで有力な場所が大手町にある平将門首塚なんです。

 

ちなみに他の首塚はどこにあるのか分かりません。

 

色んなところに落ちたというのも「ドラゴンボールかよ!」と思うくらいよく分かりません。

 

他にも首が飛んでいかなかったパターンの伝承があります。

 

「首だけの状態なのに腐らず、生きているかのように目を見開いていたけど、歌を聞いたら朽ちていった」

 

相当歌が心地よかったんですね。

 

そこじゃないでしょ。

 

晒し首という刑が今回の平将門が初であり、誰もが初めて見るから余計に恐ろしいものに感じてこういう伝承が残っているのかもしれませんね。

 

ちなみに胴体は茨城県坂東市にある延命院に葬られているそうで、これはガチで眠ってます。

 

坂東市のホームページをチェックです!

 

おい、ガチで首はどこいった?

 

平将門首塚が心霊スポットと言われる理由!

 

こんな謎の伝承が残る平将門首塚ですが、その信憑性を上げてしまう理由があります。

 

この場所をどかそうとすると人が死んでしまうのです!

 

怖くないって言ったやん!

 

そんな怖くないでしょ。

 

1923年の関東大震災のあと、都市を新しく再開発しようとしてその将門の首塚のところに大蔵省の仮の建物を立てようとしたら、工事関係者やその時の大臣が相次いで不審死してしまったのです。

 

結局、その仮の建物は壊されました。

 

戦後にGHQがこの場所を使うために壊そうとしたらブルドーザーが横転して死者が出るなど不審な事故が多発しました。

 

結局、その計画は中止になったのです。

 

しかも、この場所は大昔から祟りで恐れられていたとも言われているので、信憑性が半端ないって!という感じです。

 

平将門首塚に実際に行ってみた!

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ということで実際に大手町にある「平将門首塚」に行ってみました。

 

さすがは大手町。夜でも綺麗です。

 

今回は一人だと怖いので…

 

 

 

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都市伝説や心霊系のyoutuber「SHINKEN(@shinkencasefile)」さんたちと行きました。

 

 

 

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ぜひこの動画をみてみてください。

このブログよりも大雑把な解説になってますが、雰囲気は漂ってます。

 

 

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歴史の話をしていたらすぐ着くくらい近いです。(後日youtubeに上がりますよ!)

 

遠くに映る「緑の光」の不気味さは異常です。

 

夜も遅い23時だったのですが、お参りに来る人が意外と多くいました。

 

 

 

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ここの空間だけ隔離されていてなんども撤去しようとしても撤去できなかったというのがすごく伝わります。

 

ってかここだけ避けられるようにして存在してます。

 

周りはビルビルビルですもん!

 

相変わらず緑の光が怖いんじゃ〜

 

 

 

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そして平将門首塚です。

 

みんなお参りしに来るのが伝わるくらい花がたくさん供えてありました。

 

不思議な現象も起きません。

 

むしろ、ふんわりするものが見れました。

 

 

 

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たくさんのカエルです!

 

将門の首が胴体を探しに帰ってきたことから、「無事に帰る」「必ず帰る」という意味を込めて置かれています。

 

海外に行ったりするときはここでお参りしていくといいかもしれませんね。

 

 

 

ちなみに将門さんになんか伝えた?

 

もちろん!

 

「天下取るから見ててください!」

 

将門さん相手に一歩も引かないのさすが…

 

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年賀状の歴史がいつからか気になったので調べたら壮大だった話!

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こんにちは。しょう(@shos_history)です。

 

みなさん!今年も年賀状たくさん書きましたか?

  

最近はスマホで「あけおめ〜♪」って言って「ことよろ〜♪」って返したら完結して、年賀状は送らない風潮になってません?

 

一昔前のスマホが普及する前までは何十枚も年賀状を書いては送っていた記憶があります。

 

今の時代、スマホが優秀すぎてスマホ一つでほぼなんでも完結してしまうのです。

 

それでもかろうじて親世代や親世代より上の世代にはやはり年賀状を送る文化が残り続いています。

 

そんな消えつつある年賀状文化ですが、そもそもいつからなのか?その歴史を探っていこうと思います。

 

年賀状を送る時期がいつからなのか?と思って検索してたどり着いた方。

残念ながら年賀状の始まりの「いつから」です。

 

しかし、せっかくたどり着いたんですから「ラッキー!」と思って読んでおくと豆知識が増えていいと思います。

 

だって世界が広がりますから!

 

年賀状の歴史は平安時代から?

 

残念なことに証拠が残っていないので、年賀状の歴史がいつからで日本最初の年賀状を出したのは誰かなどは正確には分かりません。

 

年賀状を「新年の挨拶をする手紙」とすると、暦やら手紙やら文字が最低でも必要なので全て揃うのが中国と活発に交流していた6世紀あたりになります。

 

手紙ということは遠くの誰かに渡すはずなので、遠くに運ぶシステムが必要ですよね?

 

あ!前に習った駅伝のやつか!

 

駅伝について気になった方はこちらです!(めちゃくちゃ分かりやすいと思うのでぜひ!)

shoooy.hatenablog.com

 

となると7世紀(飛鳥時代聖徳太子とかいた頃)には年賀状を送る環境自体は揃っていることになります。

 

平安時代の往来物という手紙を集めた本には新年の挨拶の手紙とかがあるようで、その頃にはすでに新年の挨拶する手紙として年賀状があったことになります。

 

上の駅伝の記事にも書きましたが、中央から許可された人が駅伝という電車のようなものを使えたので、この頃はまだ一般の人が手紙を送ることはできていないと思います。

 

江戸時代には以下の理由で年賀状文化は広まったと思われます。

寺子屋という読み書きとかを習うことができる塾も出てきた!

・飛脚という宅配便のような制度が整って、一般人でも手紙をとどけることが容易になった!

 

でもまだこの頃はハガキではなく手紙です。

 

ハガキの年賀状の歴史は明治時代から!

 

明治時代になり「日本近代郵便の父」と言われる前島密まえじまひそかが「誰でも気軽にものを送れるようにしよう」ということで郵便制度を作ろう!と言いました。

 

そして1871年に郵便制度が始まったのです。

この時に郵便ポストとかも登場しました!

 

1873年には今やおなじみの郵便はがきが登場するのです。

 

そしたら徐々にはがきで新年の挨拶をし出す人が増えてくるんです。

 

そしたら年末年始ではがきが集中しますよね?

 

あ…(察し)

 

やべぇ…」と気づいた政府は1899年に新年の挨拶用のはがきを普通のはがきとは別にして年賀郵便を特別取扱としたのです。

 

12月20日〜30日までに指定の郵便局に持ち込めば新年に配達される仕組みを整えたのです。

 

1949年についに年賀はがきが登場します。

 

あー毎年買ってるやつだ!

 

年賀状の歴史と文化は変わっていく!

 

年賀状といっても紙や筆や文字や暦や郵便などあらゆる歴史が絡み合ってできた壮大なものでした。

 

年賀状文化は平安時代から今の平成時代までしっかりと受け継がれていたのです。

 

今はスマホの普及、SNSの普及によって年賀状を書かなくなってきました。

 

新しい文化によって古い文化が駆逐されるのは時代の常です。

 

しかし古い文化は消えるわけではなく、今の時代に柔軟に対応して生き残っていくのです。

 

年賀状という日本の歴史を生き抜いてきた素晴らしい文化は忘れないようにしましょう!

 

忘れないとか言ってる君。ちなみに今年は年賀状書いたの?

 

一枚…

 

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江戸時代に流行していたインフルエンザに付けられた名前が面白い!

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こんにちは。しょう(@shos_history)です。

 

インフルエンザがついに流行し出しましたね。

 

ニュースでちらっと見ただけなので本当かは知らんけど。

 

僕といえばインフルエンザ、インフルエンザといえば僕というくらいには僕とインフルエンザは仲良しです。

 

というのも、2年前までは毎年のようにインフルエンザにかかっていましたし、1年でA型もB型もどっちもかかる皆勤賞を受賞した経歴の持ち主でもあります。

 

かかりすぎでしょ…

 

そんなインフルエンザですが、江戸時代とか昔はどうだったんだろう…って気になりますよね?

 

実は江戸時代は相当インフルエンザが流行していたようです。

 

でも江戸時代はまだインフルエンザという名前が伝わってなかったので、色んな名前が付けられていました!

 

今回はそんな江戸時代に流行していたインフルエンザの名前について話していきます。

 

江戸時代のインフルエンザ!

 

江戸時代にはインフルエンザという名前が伝わっていなかったので、代わりに当時を象徴するような名前が付けられていました。

 

ちなみに日本に「インフルエンザ」という名前が伝わるのは江戸時代の幕末で流行性感冒と訳されました。

 

使われるようになるのは明治時代と言われています。

 

ではどんな名前のインフルエンザがあったのか歴史と一緒に見てみましょう!

 

江戸時代に流行したインフルエンザ「お七風邪」

 

このインフルエンザが流行したのは江戸時代初期の1683年以降です。

 

このインフルエンザが流行した時に象徴的だったのは「お七」という人物です。

 

実は1683年に天和の大火という大火事が江戸で起きました。

 

江戸時代といえば火事の時代というくらいに火事が起こるのですが、なぜ起こるのかについてはこちらの記事をチェックです。

shoooy.hatenablog.com

 

shoooy.hatenablog.com

 

その火事の際にお七の家が焼けてしまい、お寺に避難しました。

 

そのお寺で運命の出会いをするんです。

 

なんだこのラブストーリーで一本書けそうな展開は…

 

その後、家が直ったので戻るんですが、お七はどうしてもお寺で出会った男が忘れられない!

 

そこでやべぇことを考えます。

 

「もう一回家が燃えれば会えるかも…」

 

想像以上にやべぇ…

 

そしてガチで家を(もちろん自分の家)燃やそうとするんですが、すぐに消し止められて、お七は放火の罪で捕らえられ火あぶりの刑に処されます。

 

会いたいがために火をつけたラブストーリーでした。

 

会いたい気持ち分からなくはないけど、普通に会いに行けばよくね?

 

お坊さんだからそういうのダメとかあったのかも。

 

そしてお七が亡くなった後にインフルエンザが流行るんです。

 

だから「お七風邪」と呼ばれました。

 

あ、そうだった。今回はあくまでもインフルエンザの話だった。

 

江戸時代に流行したインフルエンザ「谷風」

 

このインフルエンザが流行したのは江戸時代中期の1795年です。

 

このインフルエンザが流行した時に象徴的だったのは「谷風梶之助」という人物です。

 

名前が既に風邪引きそうだな…

 

谷風梶之助は当時の大相撲力士の一人で「仙台の谷風」と言われていました。

 

かっこええー!

 

そしてこの人物は第4代横綱です。(初代ともいわれています)

 

あまりに強すぎて63連勝という記録を持っていました。

この記録は1938年に双葉山定次が66連勝するまで最多連勝記録でした。

 

あまりに強い谷風はドヤ顔でこんなことを言いました。

 

「土俵上でわしを倒すことはできない。倒れているところを見たいなら、わしが風邪にかかった時にこい!」

 

そして1795年に流行していたインフルエンザにかかって亡くなりました。

 

なにこの綺麗なフラグ回収w

 

綺麗すぎますよね。そりゃあ「谷風」なんて名前付きますよ。

 

江戸時代に流行していたインフルエンザの名前は面白い!

 

今回はインパクトの強い歴史と人物が関係する2つのインフルエンザの名前だけ紹介しましたが、「お駒風」や「お染風」などまだまだあります。

 

インフルエンザという名前が伝わってなかったからこういう風に色んなレパートリーの名前がつけられていました。

 

名前がつけられるほど、当時の人々の心に残るくらい象徴的なことだったということですね。

 

この平成時代にインフルエンザという名前が伝わってなかったら、どんな名前になってたんでしょうね。

 

ツイッター風」とか「休みたい風」とかありそう!

 

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【歴史好きが超絶分かりやすく教える】駅伝の歴史を電車に例えて解説!

こんにちは。しょう(@shos_history)です。

 

正月も終わっている圧倒的に時期外れのタイミングでこの駅伝の記事です。

 

正月記事はこちらにもあるのでぜひ!

shoooy.hatenablog.com

 

2019年の今年は東海大学が初優勝をしましたね。

 

そんな毎年何かしらドラマが生まれる駅伝ですが、その歴史は古代の飛鳥時代まで遡るというのはみなさん知っていましたか?

 

今回は駅伝の歴史について噛み砕いたいつもの感じで話していきます!

 

駅伝の歴史は飛鳥時代から!

 

駅伝という名前にクエスチョンマークが出た人!

 

クエスチョンマークが出て当然です。

 

駅?どこに駅あるの?

 

とかなるはずです。

 

それもそのはずで、駅伝という競技は実際に存在していた「駅伝」という制度からきた名前です。

 

駅伝制度は人や物資を馬で運ぶ飛鳥時代に始まった交通制度のことです。

 

駅伝制度は大きく二つに分かれていて駅制と伝制です。

つまり駅制+伝制=駅伝制ということです。

 

駅制は中央(このころの政治の中心は奈良県)と地方を結ぶ交通制度です。

 

 

f:id:shoooy:20190110144207j:plain駅家(次の行から駅と表現します)は人と馬を配置し、利用する人のための宿と食事も提供していた今でいう東京駅とかの駅とホテルの合体施設がありました。

 

その駅には駅のトップの駅長がいて、駅子えきしという車掌的な人がいます。

 

駅子は電車的な役割を持った駅馬えきばという馬の世話をしているのですが、駅使えきしという利用客(使者)がやってきたら、その馬と一緒に利用客を次の駅まで案内して進みます。

 

まさに今の駅と同じや…

 

今の駅と違うのは次の駅に着いたら車掌(駅子)も電車(駅馬)も変えるところです。

 

タスキを渡し交代していく駅伝っぽさが既に出てる!

 

利用客と簡単に言ってますが、政府から許可が降りないと利用すらできません。

 

許可制の電車かよw

 

しかも切符のような許可証明するアイテムがありました。

 

それが駅鈴えきれいという名の「鈴」です。

 

その証明書を確認して初めて利用できるわけです。

 

利用客がもし超緊急の任務を持っている場合はどうするの?

 

そりゃあもちろん特急電車に乗るしかありません!

 

はぁ?

 

その特急電車が乗れる駅と利用客のことを飛駅ひえきといい、普通より倍速で駆け抜けました。

 

この超緊急の時は利用する人は乗馬が巧みで体力があったものが任命されていたようです。

 

別に緊急じゃないときに使われた交通制度が伝馬てんま制度略して伝制でした。

 

さっきの駅制と違うのは許可が降りたぞ!という証明書が鈴ではなく紙であるということです。

 

あとはだいたい同じです。

 

緊急の時は駅制度を、緊急じゃないときは伝馬制度を利用していたのでした。

 

駅伝のモデルになった歴史は江戸時代の飛脚ひきゃく

 

最終的に駅伝制はなくなっていきますが、戦国時代や江戸時代になって伝馬制度が復活していきます。

 

それは、情報が必要不可欠だからです。

 

江戸時代にはしっかりと制度化がされました。

 

今はスマホを使えば情報は一瞬で手に入るし、荷物は宅急便で送れば済む時代です。

 

しかし江戸時代は人力で手紙などの荷物や情報を遠い地方に届けていました。

 

その時に活躍したのが飛脚というものです。

彼ら飛脚たちは自分の足で遠くの町まで走って荷物や情報を届けていました。

 

もちろん一人じゃきついですよね?

 

そこでいわゆる宿場というお休みエリアに着いたら別の人に交代して目的地に進んだのです。

 

まさに今の駅伝のモデルですね!

 

駅伝の歴史はめちゃくちゃ古い!

 

駅伝の名前自体が飛鳥時代という聖徳太子の頃の話だし、モデルは江戸時代の宅配屋さんだし、駅伝の歴史はめちゃくちゃ古いです。

 

今や正月の風物詩となっている「駅伝」。

 

その陰には多くの歴史の積み重ねがあったのでした。

 

駅伝の歴史を知ってから駅伝を見るとまた違って見えるかもしれませんよ。

 

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