【東海道五十三次を歩く!9日目】道の途中で大名に遭遇したらめんどくさい
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は9日目静岡県の掛川市からのスタートです。
前回の8日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「道の途中で大名に遭遇したらめんどくさい」
今日は掛川宿にある大池橋からのスタートです。
出典:Wikipedia
東海道五十三次の掛川宿と同じ構図で写真を撮ってみたのですが、やっぱり昔と今では見えるものが違いますね。
歩き続けていると東海道五十三次どまん中東小学校という学校を見つけました。
ネーミングセンスが絶望的にない…
校長が歴史好きだということは分かります。
一瞬ですが通ってみたいと思った学校でした。
途中で大名行列に遭遇しました。
カタツムリです!
彼らはこれから江戸に向かう大名行列でしょう。
あのペースだと余裕で10年はかかりますね。
いゃそもそも着くまえに天国の可能性が…
大名行列同士がすれ違うときには、その大名のランクで対応が変わります。
同格の場合は家老(大名の次くらいにすごい人)が土下座。
大名は乗ってる駕籠の戸を開けて「おっはー!」とお辞儀をします。
最終的に譲り合いの精神で通行します。
大したことがないやつには馬の上で帽子だけとって挨拶したり、馬から降りて一礼するくらいです。
相手が格上の場合は、大名も駕籠や馬から降りて敬意を表さないといけません。
大名で最高ランクの御三家(紀伊の徳川さん、水戸の徳川さん、尾張の徳川さん)にすれ違うと大名でさえも土下座をしないといけません。
なので、大名はみんなわざと隠れたり違う道を使ったりして御三家に遭遇するのを避けていました。
ジャイアンから逃げるのび太やスネ夫たちみたいな感じ!
現代も「上司にはどうたら〜」みたいなしょうもないマナーみたいなものがありますが、江戸時代は江戸時代でめんどくさいマナーがあったのです。
僕はカタツムリより格下なのでもちろん敬意を表して道を譲りました。
カタツムリより格下とは一体…
東海道五十三次を歩く!「名残り松はそこらへんの木とはオーラが違う」
こちらは袋井市の袋井宿です。
ここも公園となっているものの今も宿場のように休憩できます。
さらに進んだ木原一里塚にはちょうど石のベンチがあったのでお昼ご飯を食べました。
一里塚で休憩できるのも江戸時代の人たちの体験をしているようでワクワクしました。
東海道を歩いていると所々に松が生えていることに気付きます。
いわゆる名残り松といい、現代までずっと枯れずに生きていてくれていた松です。
この松も名残り松なのですが、やっぱ他の木とオーラが違います。
この松はここでどんな歴史を見てきたんだろうなーと思いました。
これからも枯れずに頑張ってほしいですね。
東海道五十三次を歩く!「浜松といえば浜松餃子」
そして今日の終点浜松に到着です!
と言っても浜松らしい写真は撮ってないんですけどね。
浜松は餃子が有名なようです!
餃子といえば戦後に中国にいた兵士が帰ってきて伝えた食べ物です。
浜松餃子は少し特殊で、円形状に焼いた餃子の真ん中にもやしがトッピングされています。
これは円形にして焼くのが当時はもっとも効率がよくたくさん焼ける方法だったからです。
真ん中にもやしがあるのは真ん中の穴が寂しいのでどうにかしようと考えた結果です。
その浜松餃子を生み出したのが石松餃子という餃子屋さんで、今回はその石松餃子の浜松駅店に行きました。
注文したのは餃子定食。
浜松餃子の特徴的な円形ではないものの、しっかりともやしはトッピングされてました。
そして餃子の中にはキャベツと豚肉がびっしり入っていました!
餃子といえばニラのイメージだったのでびっくりしましたが、むしろ食べやすくて美味しかったです。
今日は浜松まで約29km歩きました!
【10日目の記事】
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【東海道五十三次を歩く!8日目】大井川の男たちと小夜の中山の夜泣き石
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は8日目静岡県の藤枝市からのスタートです。
前回の7日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「昔の面影が残っている場所と残っていない場所」
今日はここからスタートです。
ただの道路じゃん!
と思った方。
実はここには昔、問屋場があったのです!
※問屋場とは…
江戸時代の宿場に置かれていた役所的なもの。
ここまで大名や幕府のお偉いさんの荷物を運んできた人や馬を、ここでバトンタッチさせて新しい人と馬に変えていた。
いわゆる人馬の手配をここでしていた人材派遣みたいなやつ。
駅伝でもタスキを次のやつに渡してバトンタッチしますよね?
友達同士で車でドライブする時に疲れたから交代することありますよね?
まさにそれです!
問屋場はこの業務内容からもわかる通り、割と重要な施設でした。
出典:Wikipedia
東海道五十三次にもこの藤枝宿の問屋場で人馬を入れ替えてるシーンが描かれています。
しかし、今は当時の問屋場の面影はありません。
あるのはこの問屋場跡と書かれたタイルが一枚。
寂しいな…
こういう昔の面影が残っていない場所は多いです。
逆に昔の面影が残っている場所もあります。
それがここの松並木!
昔は東海道沿いにびっしりと松が植えられていたそうです。
今は道の片側だけしか松が残っていませんが、それでも当時の面影が感じられる場所になってます。
昔の面影が残ってる場所もしっかりとあるのを間近で見ると感動しますね。
東海道五十三次を歩く!「大井川の川越は屈強な男の出番」
しばらく歩いていると島田宿に着きました。
ところどころに番宿という番号のついた家が並んでいて、
中は当時の再現がされています。
この島田宿の西には大井川という規模の大きな川があり、そこを通る人を運ぶための
仲間の宿という年寄り川越人足たちの溜まり場もありました。
川越人足の運賃は川の水量で変わります。
1文を15円とすると
一番安い股下の水量で48文=720円
一番高い腕の付け根で98文=1470円
普通に高いです。
今なら1470円あれば夜行バスで大阪やら京都やら行けます。
そのレベルの金額がこの川を渡るだけでかかるのです!
難所の川を人力で渡り命もかかってると考えたら妥当なのかもしれませんね。
でも中にはわざと水位の高いところで運んでぼったくろうとする悪い人もいたそうです。
ちなみに水深が140cmほどになると川止めになりここ島田宿か大井川を挟んだ隣の金谷宿で足止めとなります。
また、川の中を人や荷物を持って運ぶので、もちろん屈強な男でないと務まりません。
そんな屈強な男たちが職人技のように川を渡る様子を目の当たりにしたドイツ人医師シーボルト(日本地図を持ち出そうとしたのがバレた?シーボルト事件の人)は、、
「半人半魚の男たちや…」
と評しました。
川を渡る人は先ほどの金額を払い、川札という江戸時代の切符を買って人足に渡します。
そしてここが噂の大井川。
季節のためか、歩いて渡れそうな勢いで水がないです。
幅が広いので橋はかなりの長さです。
江戸時代だったらここで1500円近く取られること考えたら、「平成でよかった」と思うばかりです。
【川越人足の番宿へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「石畳再来と小夜の中山の夜泣き石」
大井川を渡り、金谷宿、日坂宿と歩き続けていると、、、
この世で一番見たくないものが視界に入りました。
地獄への標識です。
石畳の再再々再来です。
再の数が多い…
なぜ地獄かはこちらの記事をチェックです!
まぁ進まないと京都につかないので地獄の標識通り進むんですけどね。
はい。今日もよろしくお願いします(棒読み&白目)
ここは箱根と鈴鹿と並んで東海道の三代難所の1つと言われる「小夜の中山」という峠です。
もちろん箱根ほどの難所ではありませんが、急な坂は多いです。
歩いていると夜泣き石跡という石碑がありました。
昔、古夜の中山にある寺に安産祈願するためにやってきた妊婦が途中で山賊に襲われて殺されてしまいました。
お腹の切り口から生まれた子供を助けるためか母の魂は近くの石に移って毎晩泣いたそうです。
生まれた子供はその夜泣き石のおかげで見つけてもらえてすくすく育ち、最終的に敵討ちに成功しました。
その子供は乳の代わりに飴で育てられたそうです。
今でも「子育て飴」という名前で古夜の中山の名物として親しまれています。
ちなみに現在夜泣き石は国道1号線の古夜の中山トンネルの脇に置かれています。
気になる方はぜひ行って実際に見てみてください!
【夜泣き石へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「掛川城と山内一豊」
山賊に襲われることなく無事に峠を越えられ、ついに掛川宿にやってきました。
掛川宿といえば掛川城ですね!
戦国時代は
旧東海道を歩いているからこそ知れるものも多いのですが、この掛川でも1つありました。
それが七曲りです!
歩いていて気付いたんですが、普通に直線でいいのに急にジグザグな道になったんです。
地図を見てみたらこの通りです。
めっちゃジグザグ…
城のある町にはよく見る光景で、簡単に敵を侵入させないためにわざとジグザグさせた道にしているのです。
確かにこれなら簡単に侵入できないし、時間も稼げるな…
旧東海道を歩いていて良かったと思えた瞬間でした。
山内一豊の像もありました。
これはあの有名なエピソードのワンシーンですね。
ある時山内一豊は「かっこいいやつ、名馬とか欲しいな…」と指をくわえていました。
その夫の姿をみていた妻の千代は密かに蓄えていた黄金(いわゆるへそくり)を出して、名馬を買い夫の願いを叶えました。
馬揃え(馬の見せ合い)で買った名馬を出したところ信長に褒められて出世していきます。
なんて暖かいエピソードなんでしょうね。
※山内一豊とは…
戦国武将。
豊臣秀吉の部下になって掛川城主に。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の味方について、土佐(今の高知)20万石という大出世を果たし、土佐藩の祖となる。
土佐藩といえば幕末に坂本龍馬を含め歴史を動かしていくところ。
東海道五十三次を歩く!「掛川でゆず塩ラーメンを一杯」
今日はここ掛川で終了。
夕飯を調べていたら「ゆず塩ラーメン」という文字を見つけて気になったので食べてみました。
こちらがゆず塩ラーメンが食べられる「めんてい」というラーメン屋さん。
なんか車の運転ができなくなりそうな名前…
さっそく、ゆず塩ラーメンを注文。
匂いがゆずゆずしてていい感じ。
味は意外にもゆずの主張が激しくなく、ほんのりゆずってるだけなので食べやすいです。
ゆずゆずとかゆずってるってなんだ…
ラーメンの中にゆずが薄くスライスされたものが入ってました。
塩ラーメンをあまり食べない僕ですが、これはまた食べたいと思いましたね。
今日は掛川まで約31km歩きました。
※一度記録を中断してしまい、画像が2つになってます。
【9日目の記事】
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【東海道五十三次を歩く!7日目】時の止まってる世界と電気がある世界
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は7日目静岡県の清水区江尻からのスタートです。
前回の6日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「清水次郎長 がいた町」
今日はここからスタートです。
カッパにも付いてるんですね。
この橋は
しかし!
完成披露試写会で、最初に橋を渡れることに決まった老夫婦が渡ろうとしたら、突然カッパの子供が渡っていったと言います。
それから稚児橋と呼ぶようになりました。
みんなが見ていて言い伝えがあり、橋の名前も変えられてるので本当にカッパのようなものがいたのかもしれませんね。
まさにロマン溢れるミステリーですね。
そしてここ清水といえば清水次郎長が思い浮かぶ人がいるのではないでしょうか。
清水次郎長といえば弱きを助け強きをくじく、いわゆる侠客(良いヤクザみたいなやつ)として有名です。
子分をたくさん従えて次郎長一家(清水一家)というものを持つくらいにその道では規模の大きなすごい人でした。
次郎長の子分の一人をだまし討ちした
悪いのは都鳥だけど、それにしても弔う人が全然いないことに憐れんだ人が建立したそうです。
亡くなったものには善悪なんて関係ないということですね。
ちょうど清水次郎長にもこんなエピソードがあります。
時は幕末の戊辰戦争。
西郷隆盛たち新政府が優勢の頃。
そのまま船も損傷しているので修理のために清水湊に寄りました。
その時に幕府軍は新政府軍に囲まれ降伏したのですが、乗り込んできて次々と斬り殺されました。
その死体は海に遺棄され、
「触ったら賊軍な?」
と言われます。
※
天皇とか朝廷に敵対する軍のこと。
逆に天皇や朝廷側の軍を官軍という。
そのひどい状態を見ていた次郎長は「死んだらみんな仏。仏に官軍も賊軍もない!」といい、遺体を回収して手厚く葬りました。
このエピソードを聞いた山岡鉄舟とのちに親交が深まっていきます。
※
江戸時代の幕府の人で幕末の奇跡である江戸無血開城を実現させた立役者の一人。
西郷隆盛と会談する時には、一人で敵陣に乗り込んできては主君(徳川慶喜)の命を保証するよう交渉をし、最後まで忠義を貫いた。
めっちゃ暖かい話ですよね。
これは親分と言いたくなる…
清水次郎長はその後、明治時代には新田開発や開墾などに取り組み、この地域の発展に貢献しました。
僕の知ってるヤクザじゃない…
ただただいい人…
東海道五十三次を歩く!「草薙ってかっこいい」
次郎長の町を満喫していましたが、急に戦国時代がやってきます。
上原子安地蔵堂。
ここで武田家(当時めっちゃ強かった家で武田信玄は有名)の家臣だった
え?裏切ったってこと?
そうです。この裏切りが武田家の滅亡を早めました。
ちょっとナイーブになりながら歩いていると、草薙という文字を多く見るようになりました。
ついにきました。みんな大好き「草薙」です!
※写真は草薙神社の鳥居。
ゲームとかアニメでも草薙剣(くさなぎのつるぎ)としてよく見かける言葉ですよね。
大昔に敵に襲われ草原に火を放たれたヤマトタケルは、草を薙ぎ払って難を逃れました。
その薙ぎ払った時に使った剣を草薙剣と呼ぶようになったというのが草薙の由来のうちの1つの説です。
東海道五十三次を歩く!「家康がほぼいた場所の名前は駿府」
剣じゃないやつで草を薙ぎ払っていたらどうなってたんだろう…というしょーもない妄想をしながら歩いていたら、ついにやってきました。
府中宿!
いわゆる家康の町"駿府"です。
家康が小さい頃にも晩年にも住んでいた、まさにゆかりの地です。
家康がどこにいるか分からない時はとりあえずここに来ればほぼいるというレベルです。
旧東海道からだと周りが建物ばかりなので駿府城のかけらも見えませんでした。
昔は見えたであろう場所からもう見えないの悲しい…
駿府城で家康は晩年に政治を行なっていた「家康のお膝元」であり、静岡県の中でも最大規模の宿場町として栄えました。
今回偶然にもお祭りらしきものがやっていた時に駿府を通り、人が集まって盛り上がってる様子を見ていたら、
歴史が引き継がれているなぁと感動しました。
静岡の歴史観光が気になったらこちらの記事をチェックです!
ここで本日は終了!でもよかったんですが、まだ15時だったのでもう少し歩くことにしました。
東海道五十三次を歩く!「丸子 の丁子屋 と紅茶」
丸子宿に到着。
ここの一番の見所はこの丁子屋というお店。
創業は1596年。
豊臣秀吉が健在していた時代。
当時はお茶屋として開業し、そのうちとろろ汁が看板メニューになり、旅人たちに親しまれました。
出典:Wikipedia
歌川広重の東海道五十三次では丸子宿として描かれた風景に丁子屋の姿が見えます。
気づきました?
実は400年以上も変わらず同じ場所にあるんです!
これすごくないですか?
東海道五十三次に描かれてる場所が今も同じ姿で残ってて、そこに行くことができるんです!
ここだけ時が止まってるかのように見えました。
ここでとろろ汁をいただきたいところでしたが時間がないので今度観光で来た時に行くことを誓い、先を急ぎます。
なぜ時間がないかというと、
これから峠が待っているからです!
峠が待ってるし、峠を越えないと寝床すらないからです!
ただ、急いでいても目に留まるものがありました。
『日本の紅茶発祥の地 丸子紅茶』と書かれた看板と味のある水車です。
時は明治時代。
元幕府の人だった多田元吉という人物がこの静岡県の丸子に茶園を開きます。
インドや中国へ行き紅茶の製造技術を学び、持って帰ってきた紅茶の木を植えたことから紅茶の生産が始まりました。
まさに丸子こそ国産紅茶始まりの土地なのです!
でも国産紅茶は今ほとんど見かけませんよね?
いわゆる大人の事情ってやつです。
便利な言葉「オトナノジジョウ」出た!
まぁリプトン最強ってことですわw
東海道五十三次を歩く!「電気がある現代の素晴らしさ」
宇津ノ谷峠という難所の1つが出てきました。
もちろん軽く蹴散らします。(暗くなりだして若干ビビってました。)
完全に夜になりました。
持ってる地図が機能してないくらい電気がないです!
かろうじて車が通るときのライトとたまにある街灯、そして我らが命のスマホでなんとか地図を見れました。
今でも電気がなくて結構不便なのに、江戸時代なんて全く電気がないんですよね。
常夜燈(江戸時代の街灯)なんてどこでもあるわけないですし。
そう考えると、江戸時代の旅ってマジで命がけで危険なんだなぁと実感しました。
そして、今や当たり前の存在「電気」って素晴らしいなと。
色々と思った1日でした。
今日は約33kmほど歩き、静岡県の藤枝市まで来ました!
【8日目の記事】
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由比の名物「桜えび」を歴史風に食レポしてみた!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
参勤系男子ってなに?と思った方はこちらをチェックです。
要するに日本橋から京都まで旧東海道を歩いて行くよ!って男子のことを参勤系男子と言います。
そんな男子滅多にいない…
歩いていたら静岡県の由比という場所を通りました。
由比といえば桜えびで有名な所ですよね。
今回はそんな由比の桜えびを簡単に食レポしながら紹介します。
もちろん、歴史もパセリのように添えていきますよ!
由比の名物「桜えび」の歴史は偶然から始まる!
まずは由比がなぜ桜えびで有名なのか、
基本から、
いや歴史から!
掘り下げてみましょう!
江戸時代の頃には桜えびの存在は漁業の人たちには知られていたそうです。
時は1894年の明治時代。
由比の2人の漁師がいつも通り魚を取ろうとして、網を投げていました。
しかしいつの間にか深く網が潜ってしまい、引き上げたら桜えびが大量にかかっていたのでした。
これ以降桜えび漁が盛んになっていきました。
桜えびの歴史はまさに偶然の始まりだったのです!
桜えび漁は桜えびの保護のために日本で駿河湾でのみ行われ、捕獲も年2回に制限しています。
もちろん由比も駿河湾に面してます。
静岡県の公式サイトによると、桜えびが取れるのは世界で駿河湾と台湾で、生で桜えびが食べられるのは静岡が世界で唯一のようです。
そんな感じで桜えびの歴史と魅力を知ったところで早速食べて食レポしてみます。
由比の名物「桜えび」を歴史風に食レポしてみた!
今回訪れたのは「ごはん屋さくら」というお店。
普通はここでお店の全体写真を載せるのものですが、なぜか撮り忘れているということは内緒です。
場所は由比駅のすぐ近く!
・
・
・
と思いきや、旧東海道沿いに東京方面からきた人は残念ながらすぐ着きません。
線路に踏切がないんです!
その現実を知った時にスクショした画像がこちらです!
見ての通り、だいぶ歩いてUターンしないと行けない場所にあります。
近いようで遠いです。
目の前に宝物が見えるのに、断崖絶壁みたいな感覚です。
仕方なく歩いて線路を横切れる場所まで向かいます。
ただ、冷静に考えてください。
歩いて由比に来るやつなんて普通いないです!
普通は車や電車に乗ってきます。
とは言ったものの…
電車の人は残念ながら僕と同じ遠回りルートです。
ただ車で来た人はラッキーです。
お店が国道1号線沿いなので普通にたどり着きます。
余談ですが遠回りに歩いているとおばちゃんに遭遇して、なぜかみかんを貰いました。
到着して待つこと数分。
念願の桜えびを食べます。
今回注文したのはこのお店の人気メニュー「桜えび定食」!
写真の上から、しらす、桜えびのかき揚げ、桜えび、桜えびのお吸い物、桜えびの佃煮にご飯とお新香です。
桜えびが集合してお盆の上がまさに関ヶ原の戦いです。
※関ヶ原の戦いとは…
1600年に岐阜県の関ヶ原で行われた
両軍合わせて16万以上もの兵士が集まる大規模な戦いであった。
最終的にもともと石田チームだった
この戦いによって徳川家康は天下にほぼ王手となった。
どれも美味しいのですが、特筆すべき桜えび料理は桜えびのかき揚げです。
この写真を見てください!
めっちゃ分厚くないですか?
普通のかき揚げの4倍くらいの厚さはあります。
なん億年分の歴史がつまった地層みたいに分厚かったです。
サクサクです。
めっちゃサクサクです。
脂っこいかなと思ったんですが、普通に食べやすいです。
ただとても厚いので1つ食べれば満腹になります。
味に変化をつけたい方はこちらの「桜えび髭塩」を使いましょう。
名前の通り、桜えびの髭を細くして塩と混ぜたものだと思われます。
普通の塩のような強さはない一方で、さっぱりほのかな塩加減なので飽きないです。
そしてそして。
こちらのお店。
ご飯のおかわり自由です!
僕も2杯はいただきました!
最後に優しく話しかけてくれたお兄さんとパシャり!
由比に行ったらぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
分厚い桜えびのかき揚げを含めた桜えび軍団が待ってますよ!
【アクセス】
徒歩、電車の方は遠回りするため注意が必要です。
車の方は国道1号線沿いにあるので問題なく着きます。
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【東海道五十三次を歩く!6日目】みかんとエビとがっつり歴史と
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は6日目静岡県の吉原からのスタートです。
前回の5日目の戦いを読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「富士川と源平合戦の歴史たち」
今日のスタートはこの木から。
出典:Wikipedia
ここは実は、江戸時代に左富士といって東海道では珍しく左側に富士山が見えた数少ない場所の1つでした。
今はご覧の通り…
全く見えません!!!
左側に見えたらどんなに良かったかと思いながら歩いていると、、
「へいけごえ」と書かれた橋を見つけました。
どうやらこの辺りが源平合戦の時の有名なエピソードの1つ「水鳥の羽音」の舞台のようですね。
※富士川の戦いとは…
のちに鎌倉幕府を開く源頼朝たち源氏チームを倒すために京都からやってきた平氏チームによる戦い。
この戦いで水鳥の羽音を聞いた平氏チームは源氏チームの襲来と勘違いしてビビって敗走する。
この戦いののちに源氏チームに余裕が生まれ、平氏優勢から源氏優勢に変わる。
水鳥の羽音でビビるほど平氏の精神が弱っていたということでしょう。
確かに緊迫してる時にバサァってされたらビビるw
橋を写真に収めてますが、実はしっかりした石碑が近くにあったみたいです。(後日談)
そしてここが噂の富士川です。
この富士川を渡るのに昔は六文(90円くらい)かかっていました。
江戸時代もその時代に合った面白いビジネスをやってますね。
もちろんこの富士市にも一里塚はありました!
両方現存していて、しかも道幅が狭いのでしっかりと写真に収まってくれました。
何度も言いますが、一里塚は約4kmごとに置かれた目印&休憩スポットです。
東海道五十三次を歩く!「蒲原宿のなまこ壁!」
歩いてたらなんかあったんですよ。
常夜燈です!
常夜燈は江戸時代版の街灯のようなものです。
今の街灯ほど明るいわけではなさそうですが、無いよりはマシです。
多くが宿場町とか峠の入り口とかにあって目印になってます。
中を覗いてみたんですが、どうやって明かりがつくのかさっぱりでした。
この写真の石の上に油でも浸すんですかね?
あと、うっすらと「宿内安全」って書いてありました。
蒲原宿の中を歩いていると道の両脇にとても古そうな家がいくつもあるのを見ました。
この写真のワッフルのような模様の部分をなまこ壁と言います。
観光地で一度は見るやつ!
ワッフル模様の白い部分がどうやらなまこに見えることからなまこ壁と呼んでいるそうです。
僕には残念ながらなまこには見えません。
防火性、耐水性に優れているので、お城とかでも使われていました。
どうりで観光地で見るのか!納得!
東海道五十三次を歩く!「由比正雪と由比宿!」
蒲原宿から4kmほど歩くとまた宿場があります。
それが由比宿です!
由比といえば思いつくものが2つあります。
グルメの方はもちろん「桜えび」が思い浮かんだでしょう。
しかし、歴史好きの方は「由比正雪」という名前を思い浮かんだのではないでしょうか?
実は江戸時代初期に由比正雪によって江戸幕府存亡の危機となる大きな事件が起こっていました。
それが由比正雪の乱(またの名を慶安事件ともいう)です。
由比正雪って誰やねんという方が読者に多いと思われるので、いつものごとくめちゃくちゃ噛み砕いた説明を載せておきます!
※由比正雪の乱とは…
1651年に起きた江戸幕府転覆計画事件。
時代は江戸幕府によって「お前改易(いわゆるクビみたいなやつ)!お前も改易!お前は減封(いわゆる給料減額の給料じゃなくて土地が減るバージョン)!」と力を背景にして政治を行なっていた頃。
その改易やら減封によって職を失う人たちが急増した。
そのため各地に幕府に不満を持つものが多かった。
そんな様子を見ていた由比正雪は立ち上がろうとするが計画が事前に漏れてしまう。
そしてこの事件の後に、さすがに今までのやり方を見直す必要を感じた江戸幕府は最終的に法律とか学問で平和に政治を治める「文治政治」に政治の仕方を変えた。
要するに無職たちで溢れているこの状況をどうにかしろ!と立ち上がったのが由比正雪だったのです。
時代が時代だったらハローワークの窓口やってそう…
そんな由比正雪の生まれた家がこちらです!
染物屋さんだったんですね。
反対側には由比本陣跡がありました。
今は公園になってますが、当時の本陣の大きさが伝わってくるくらいに広いです。
どうやら由比という家はこの辺りでは結構な力を持っていたようです。
近くには馬の水飲み場がありました。
旧東海道を歩いていると度々登場するのがこの水飲み場。
昔の移動手段で最強は馬です。
参勤交代でも旅でも少なからず馬を使うので、その馬のための休憩スポットはあちこちにありました。
どうやら今は亀たちの休憩スポットのようです。
東海道五十三次を歩く!「由比の人たちめっちゃ暖かかい!」
お昼ご飯を探して歩いていると突然車に乗ったおばちゃんが「どうしたの?」と声をかけてくれて、なぜかみかんをいただきました。
青島みかんというそうです。
中にタネが入っているという今までに食べたことがないみかんでした。
種無しのみかんは江戸時代に突然変異で誕生しました。
今でこそ種無しみかんがメジャーとなってますが種ありもあるんです!
美味しかったです。ありがとう!おばちゃん!
お昼ご飯も無事に食べられました。
もちろん由比といえば桜えびですからね!
さっきまで由比正雪とか言ってたような…?
お店のお兄さんがビスコをくれました。
みかんといいビスコといい、色んなものをいただけて嬉しかったです。
由比の人たちマジであったけぇ…
東海道五十三次を歩く!「薩埵峠とみかん」
お昼ご飯も食べて元気2万倍になったので薩埵峠を登りました。
いわゆる東海道の難所シリーズの1つです。
ただ、ラスボス箱根をすでに経験し、しかも倒しているので全く屁でもありませんでした。
歩いているとみかんの木がたくさんありました。
もちろん竹も!
出典:Wikipedia
そしてここ薩埵峠は歌川広重の東海道五十三次に富士山が描かれるくらいにすごい景色が見れる場所なのですが、僕の行ったタイミングは曇り時々雨。
富士山のカケラも見えませんでした。
東海道五十三次を歩く!「みかんとエビとがっつり歴史と」
歩いていたらみかんをもらうという初めての経験に驚きと共に暖かさも感じました。
なまこ壁やワッフルも出てきたし、桜えびも美味しかったので、6日目はもはやグルメ回ですね。
今回は32kmほど歩き清水湊のある清水区江尻というところまで来ました。
有名どころだと三保の松原も清水区ですね。
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【東海道五十三次を歩く!5日目】富士山が見える奇跡の物語
こんにちは。日々足が痛いしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は5日目静岡県の三島からのスタートです。
前回の4日目の戦いを読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「三嶋大社はすごいんだぞ」
今日は三島市のここからスタートです(白目)
石畳リターンズ!
石畳(石の道)は見たくないと思ってたし、見ることもないだろうと思ってたんですけど、まさか朝から拝めるとは思いませんでした。
ただ、箱根で貯めた経験値のおかげで余裕で抜け出せました。
ここの石畳も箱根同様に江戸時代初期までは竹が敷いていたのですが、人も馬も滑ってしまうほどの急な坂道なので石を敷きつめたそうです。
それがなんと1680年で、箱根の道を竹から石に変えた年と偶然にも同じだったのです。
つまり1680年にいたるところの道を竹から石に変えたということでしょう。
そして僕でも聞いたことがある神社「三嶋大社」を横切ったので、せっかくなので観光してきました。
※三嶋大社とは…
伊豆玄関口である静岡県の三島市にある神社。
源頼朝が源氏復活を祈願した場所としても有名。
商業、工業、漁業にご利益があるらしい。
まだ満開じゃありませんでしたが、ちょっとした花見ができました。
しっかりお祈りをして、いざ進みます。
【アクセス】
東海道五十三次を歩く!「ちょびっと観光しながらひたすら歩く」
三島市にも時の鐘がありました。
時の鐘とは江戸時代の時計です。
日が明けた時と日が沈む時にこの鐘がなって知らせてくれていました。
こちらは
送水システムを作るのに千貫というお金がかかったそうです。
※今川氏と武田氏と北条氏は戦国時代ではトップレベルの強さの家たちです。
写真は千貫樋を捉えられてるかわかりません。標識があったので多分あってます。
当時は水が貴重だったので水自体が贈答品レベルだったんですね。
一里塚(昔の休憩スポット&旅の目印)もありました。
両方残っていて片方の一里塚(写真のやつ)は当時の姿のまま今に残っているそうです。
東京では滅亡しているデイリーがあって懐かしさも感じました。
お昼頃には沼津市に入りました。
玉砥石という古墳時代(聖徳太子とか古墳とか出てくる時代)の流行アイテム「勾玉」を磨く石がありました。
写真をよく見ると溝のような線がありますね。
この溝を使って勾玉を磨いていたそうです!
そういえばご飯なに食べてるか話してないですね。
栄養バランス考えて食べてます。(もちろんお肉もおにぎりも食べてます)
写真から醸し出す女子力…
すごくどうでもいいんですが、旧東海道の案内がファミマっぽい色してました。
すごくどうでもいい…
東海道五十三次を歩く!「富士山どこだ!」
原宿に着きました。
原宿という名前を聞いた瞬間に東京を思い浮かべて「なに帰ってんだ!」と思った方。
静岡にも原宿はあります!
もちろん神奈川にも原宿はありましたね。
「原」がつけば昔そこは原っぱだったということです。
出典:wikipedia
ここ原宿は東海道五十三次にもあるように富士山が見える地域の1つなのですが、
原宿に入った時遠くの富士山あたりが曇ってました。
しかも時間的にも16時すぎなのでそろそろ暗くなりだす時間です。
せっかくなら見てみたいと、東海道五十三次と同じような場所まで足を引きづりながら歩き続けました。
家もあるので、天気とちょうどいい場所の両方がタイミングよく一致しないと見えないほどの難易度です。
17時ごろに東海道五十三次に似た場所に着いて富士山の方をみても全然見えなかったです。
仕方なく「ここから富士山が見える時は見えます!」というオチをつけようと写真を撮ろうとカメラをのぞいたら…
富士山が見えてたんですよ!完全ではないですが。
偶然と必然は表裏一体と自分でいつも言ってますが、これはさすがに偶然すぎました。
嬉しさのあまり、痛い足を忘れて笑顔がこぼれました。
東海道五十三次を歩く!「富士山が見える奇跡の物語」
もしかしたら富士山はまだ見えるかもしれないと諦めずに頑張って歩いた甲斐がありました。
途中で余白の多い標識に「絶対半分節約できる…」と突っ込んだり
「字の癖が強い」と突っ込んだり、だいぶハイテンションでした。
そんなこんなで今日は吉原まできて、23km歩きました。
東京の吉原ではありませんよ!
【6日目の記事】
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東京から京都までの旧東海道で一番多い落し物は何か気になったので歩いて検証してみた!
こんにちは。武蔵国出身のしょう(@shos_history)です。
※武蔵国とは…
大昔は埼玉・東京・神奈川の一部が1つの国で、その時の名称が武蔵国。
このブログの筆者は隙あらば歴史ネタを突っ込んでくるので悪しからず。
突然ですがみなさん。よく道端に手袋とか靴下とか色んな物が落ちてるところを見たことありませんか?
僕はよく見ます。
なぜか人って物を落としてしまうんですよね。
僕も折り畳み傘の袋をよく落とします。
落とす度に毎回レジ袋にいれて仕方なく保管しています。
そんな時にある疑問が浮かびました。
江戸時代から多くの人に使われていた旧東海道を東京から京都まで歩いたら何が落ちてるんだろうか?と。
一番多い落し物は何か?と。
まだ誰も旧東海道を歩いて落し物を調べた人はいないので、もしかしたら歴史的発見があるんじゃないかと思って検証してみることにしました。
※この企画は東海道五十三次を歩く!という企画の1つとして行った裏企画の1つです。
東海道五十三次を歩くってなんやねん!ってかたはこちらの記事をチェックです!
京から京都までの旧東海道で一番多い落し物の検証ルール!
もちろんどこからどこまでが落し物なのかという線引きをしっかり決めないと後々混乱する未来が見えるのでここで決めておきます。
・明らかに捨てられているものは落し物としてカウントしない!
→ゴミ置場にあるものや捨てたと思えるものに関しては落し物ではないとします。
・2つで1つセットのものは1つでも落ちていれば1つとしてカウントする!
→手袋とか左右1セットもので、揃って落ちていた場合は2つとしてカウントします。
・僕が通った道だけを検証範囲とする!
→実は反対の道にあったとかは気にしないことにしました。そこまで細かくやってたら日が暮れるどころか一年経ちます。
これだけ決めておけば安心です。
ではさっそく検証スタートです!
東京から京都までの旧東海道で一番多い落し物【前半 東京〜静岡】
スタートは江戸の日本橋。
日本橋は江戸時代に徳川家康による街道整備の際に架けられた橋で五街道(東海道やら中山道やら)の起点です。
天気は快晴。
日本橋から歩き出し、ついにホイッスルが鳴ります。
人が多いのでワンチャン落ちてないかなと期待してましたが、意外と落ちてない!
東京の旧東海道沿いには落し物ありませんでした!
初めての落し物を見つけ、試合が動き出すのは神奈川県の横浜市に入ってから。
写真を撮り忘れてしまいましたが、セーター、セーターです。
落し物をマジマジと見て写真を撮ることが恥ずかしかったというのはここだけの話です。
写真の代わりに、手作りイラストで当時の状況を振り返ってみましょう。
※なんとなく分かってもらえればOKです。
とりあえず神奈川でセーター1着見つけました。
その後には神奈川同じく横浜市で今度はマフラーを発見。
ここまで優勝候補の手袋が全くないです。
そもそも落し物が全然ないんです。
内心撮れ高が無くて焦ってます。
大昔から東海道の難所と言われている箱根。
箱根の県道沿いには左手袋が1つありました。
ここに来てやっと優勝候補の手袋が動き出しました。
箱根の山中では左足の靴(紐なし)が落ちていました。
よくみてみると東京原宿で生まれたスニーカーブランド「MAD FOOT(マッドフット)」のようです。
サイズは…
どうやら26.5のようです。
歩いていたら片足だけ脱げて気づかずに歩いていってしまったのでしょう。
そりゃあ靴紐がないので脱げて当然です。
箱根を無事に抜けて静岡県に入りました。
その間に雨がやばくて傘2回も買いましたよ。
袋井市ではさっそくダウンジャケットが一着落ちていました。
この寒い季節に服を脱ぎ忘れることがあるんですね。
磐田市では左手袋(軍手も手袋扱いで)。
やはり、さすがは優勝候補手袋です。
そして片足分の靴下。
どうしたら片足の靴下落とすんだろうか…
磐田市の終わりあたりで右手袋。
序盤は全く落ちてなかったのに箱根を越えてから急に落し物率が増えてきました。
落し物が田舎に多いとすると、箱根から西の静岡からが田舎なのかもしれません。
ここで前半終了です。
前半を振り返ってみましょう。
神奈川県から落し物が見えてきて、箱根を越えてから急に増え出しました。
前半を終えてリードしているのは手袋の3点。
他のマフラー、セーター、ジャケット、靴、靴下は1点ずつです。
さぁ後半戦でどうなるのでしょうか!
東京から京都までの旧東海道で一番多い落し物【後半 愛知〜京都】
泣いても笑っても最後。
後半戦が今スタートです!
愛知県の豊橋市でまずは軽いジョブのように手袋発見です!
ちなみに右手袋です!
そのまま三重県の亀山市に入りました。
ここでも手袋です。
もちろん右手袋です。
こちらは関宿です。昔の街並みが今も綺麗に残っている地域です。
その関宿を抜けた先で手袋ラッシュです。
左手袋と右手袋です!
どれも別の種類の手袋なのが不思議です。
そして東海道の難所の1つ、箱根に次ぐ難所と言われている鈴鹿峠を抜けて滋賀県に入りました。
忍者で有名な甲賀市です。
ここぞとばかりに手袋です。
もちろん右手袋です。
忍者の里と言う割にはめっちゃ普通の軍手でした。
何を期待してるの?
湘南市では手袋がセットの状態で落ちてました。
写真では片方だけですが、この奥にもう1つありました。
片方落として片方残ってた時の虚無感を考えたら、むしろ1セット丸々落とした方が清々しい気持ちでしょうね。
そして琵琶湖が見渡せる大津市にやってきました。
京都までもう少しです。
最初は落し物をマジマジと見て判別して写真を撮ると言う行為が恥ずかしかった頃の自分。
この企画と旅を通して、恥ずかしさがいつの間にか無くなっていました。
まさに成長です!
そんなことを思いながら歩いていると最後の手袋に出会いました。
まさかこの手袋が最後になるなんて思っていませんでした。
今思うと、あいつ(手袋)に「ありがとう」くらい言っても良かったと思います。
この手袋は左か右か判別できない手袋でしたが、左な気がします。
手袋の指の部分の毛がごちゃごちゃしていたので、その面で使ってる証拠なのでは?と思ったからです。
これも東京から落し物をマジマジと見てきた成果ですね。
このまま旧東海道の終点「京都の三条大橋」に到着。
無事に旧東海道を歩く旅が終わり、この落し物企画も終わりました。
後半を振り返ってみましょう!
後半は手袋しか落ちてませんでした。
手袋多すぎ問題…
東京から京都までの旧東海道で一番多い落し物【結果発表】
それでは東京から京都までの旧東海道で一番多い落し物は何か検証した結果を発表します。
一番多かった落し物は…
・
・
・
手袋です!
知ってた。
こちらが全体順位になるので確認してみてください。
一番多い落し物はやはり手袋でした。
しかし、僕は今回の検証ですごいことに気づきました。
1つ目は、手袋は右のほうが落ちているということです。
日本人が右利き率が高いからでしょうか。
右で何かするときに右手の手袋だけ外すと仮定すると、右手袋だけ落ちてしまうのも分かる気がします。
2つ目は、季節ものが落ちているということです。
今回は3月末〜4月頭にかけて歩きました。
いわゆる冬の寒さの残る春の季節です。
だから防寒対策のものが多く落ちていたんだと思います。
そこで僕は気づきました。
もしパンツ一丁で日本橋から旧東海道を歩いたら、
京都に着く頃には
防寒対策バッチリになっていると!
これは歴史的発見です。
いつかパンツ一丁スタートとか季節を変えて落ちてるものが変わってるのかとか検証してみたいですね。
あれ?
あれ?
無いぞ…
折りたたみ傘の袋しかねぇ!
折り畳み傘の本体をどこかに落としてきたようです。
おわり
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