【検証】東海道五十三次は今と昔でどう変化したか写真と浮世絵で比較してみた!
こんにちは。
現代の歌川広重こと疑わしい広重(@shos_history)です!
確かに見た目がすでに疑わしいな…
江戸時代に東海道の全宿場(町版サービスエリア的なやつ)の風景を描いた「東海道五十三次」をリリースした日本屈指の絵師"歌川広重"。
彼の作品「東海道五十三次」は日本中の人々から注目をあび、瞬く間に有名になりました。
「ひまわり」でも有名なオランダの画家ゴッホにも影響を与えるほどでした。
ゴッホは広重の描いた浮世絵をいくつも模写してるんですよ!
あの世界のゴッホをうならせる歌川広重マジ半端ない…
そんな歌川広重の残した大作「東海道五十三次」は江戸時代の風景を描いていますが、現在は平成、いや令和です。
ということで今回は、
今と昔で東海道五十三次はどのように変わっているのか!
実際に東海道五十三次を歩いて写真におさめてきたので比較検証してみようと思います!
疑わしい広重による現代版東海道五十三次をご覧あれ!
※注意事項
できるだけ場所も角度も東海道五十三次の当時と同じように撮っています。
当時の正確な位置は調べてもほとんど出てこなかったので、出てきた少しの情報をもとに僕が浮世絵を見て推測で判断していることはご了承ください。
東海道五十三次の今と昔を写真と浮世絵で比較!
東海道五十三次の起点〜江戸日本橋〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
日本橋は1603年に建造され、1872年の明治初期までは木造でした。
東海道の起点として繁栄していました。
東海道五十三次の浮世絵には中央に大名行列、左側に魚を運んでる人たちと高札場(掲示板)が描かれています。
現在もこの写真の角度から日本橋を見ると左側に高札場跡や魚市場発祥の石碑があるので、この位置で描かれたもので間違いないと思います。
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東海道五十三次の宿場1〜品川宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
品川宿は江戸の玄関口として賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵では左側が海、右端が御殿山、間の道を大名行列が通過している様子が描かれています。
浮世絵の通り、もともと品川は海が目の前にありました。
海は埋め立てによって当時の面影は残っていませんが、山は写真右端のように当時の面影が残っています。
道の角度、山の位置的にもここからの視点で描かれた浮世絵で間違いないです。
東海道五十三次の宿場2〜川崎宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
川崎宿は隣の品川宿と多摩川を挟んでおり、六郷の渡しを控えていたため賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵ではちょうど六郷の渡しを行なっているところが描かれています。
六郷の渡しとは運賃として6文(1文=15円とすると90円)を払って船で運んでもらうことです。
現在は六郷橋が架けられています。
偶然にも江戸時代と同じように船が川に出ている瞬間を捉えることができました。
船からも時代の変わりようがわかりますね。
川となると正確な位置は断定できないですが、おそらくこの写真の位置じゃないかと思われます。
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東海道五十三次の宿場3〜神奈川宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
神奈川宿は幕末の開国によって宿内の寺が各国の公使館や領事館になっていたため、グローバルなところでした。
東海道五十三次の浮世絵には左側が海で、海の横に建物が並んでいる様子が描かれています。
浮世絵に描かれている「さくらや」というお店が田中屋となって今も同じ場所で営業しています。
江戸時代に描かれた場所は今は静かな住宅街になっており、海は見えません。
田中屋の位置、道の角度的にこの場所ではないかと思われます。
東海道五十三次の宿場4〜保土ヶ谷宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
保土ヶ谷宿はまぁまぁ賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には右手前に
帷子橋と川が描かれていたこの場所は現在は天王寺駅前公園となっており、橋の方は簡易的に復元されています。
写真を撮る角度はなぜか盛大に間違えましたが、橋の場所的にも位置はここで間違いないかと思われます。
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東海道五十三次の宿場5〜戸塚宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
戸塚宿は日本橋から42kmほどの地点で、ちょうど一泊目の宿泊地に最適な場所だったため大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には右端に大橋(今の吉田大橋)、左端にはこめやという茶屋、橋の奥に戸塚宿の町並みが描かれています。
十といの組み合わせのような文字は「古」がくずれた字です。
古めやでこめやと読み、名前の通り昔はお米屋さんだったようで、途中から茶屋を始めました。
現在はこめやは残っていませんが、大橋が残っていたり、道の角度も浮世絵と同じ感じなのでここで間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場6〜藤沢宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
藤沢宿は江ノ島神社のある江ノ島に通じる道があるため大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には奥に
現在はこの場所に一の鳥居は無いですが、遊行寺や橋は今も変わらずあります。
浮世絵と同じ橋があるこの場所で間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場7〜平塚宿〜
【昔】
【今】
平塚宿は普通の宿場レベルの賑わいだったと思われます。
東海道五十三次の浮世絵には中央に丸い山が特徴の高麗山、その隣が富士山と大山、奥には花水橋が描かれています。
高麗山は現在も同じ姿で存在していますが、大山は建物が多いためか全く見えません。
花水橋も同様の理由で見えません。
道の角度、高麗山の位置などから、この場所でほぼ間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場8〜大磯宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
大磯宿も普通の宿場レベルに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には中央に大磯の宿と江戸方見附(江戸方面から宿場に入る玄関)、雨のなか松並木を歩く人たちが描かれています。
現在は江戸方見附はありませんが、「ここら辺にあったよ!」という標識(写真中央)や当時をしのばせる松並木がありました。
写真の右端の木はもしかしたら浮世絵の右端の木と同じかもしれませんね。
角度的にもこの場所で間違いないと思われます。
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東海道五十三次の宿場9〜小田原宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
小田原宿は小田原城の城下町として発展し、東海道最大の難所箱根を控えていたため、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には中央手前には酒匂川と川越人足(人や物を担いで川を渡る人)、写真右奥には難所箱根山が描かれています。
橋がかかった影響で浮世絵のように箱根山の左端を見ることはできませんが現在も酒匂川・箱根山共に同じ姿で存在しています。
箱根山が望めるこの辺りで間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場10〜箱根宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
箱根宿は箱根山の中に宿場がないのは不便ということで新設され、まぁまぁの賑わいだったと思われます。
東海道五十三次の浮世絵にはカラフルな箱根山と芦ノ湖が描かれています。
現在も箱根山・芦ノ湖共に同じ形で存在しています。
天気の影響で浮世絵と同じ場所はつかめませんでした。
次回ここはリベンジして更新します。
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東海道五十三次の宿場11〜三島宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
三島宿は小田原宿と同様に東海道最大の難所の箱根山を控えており、さらに三嶋大社の門前町(寺周辺で発達した町)としても発展し、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には中央には馬や
現代の乗り物は馬でも駕籠でもなく車ですが、三嶋大社の鳥居は変わらず存在しています。
浮世絵に描かれた鳥居の位置と角度的に、この場所で間違いないかと思われます。
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東海道五十三次の宿場12〜沼津宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
沼津宿は江戸への物の輸送など港町としての機能を有しており、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には中央に狩野川と沼津宿に向かう人、右奥に沼津宿の町並みが描かれています。
現在は浮世絵のような木々ではなく、代わりに建物が茂っています。
浮世絵と同じ方向に宿場の跡がたくさんあり、しかも川の曲がり角度は当時をしのばせていることから、この辺りで間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場13〜原宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
原宿は富士山が綺麗に見える場所として人気スポットでした。
東海道五十三次の浮世絵には富士山と愛鷹山を背景に旅人のような人たちが描かれています。
現在も浮世絵のように富士山と愛鷹山が重なる場所はありましたが、浮世絵ほど富士山が近くはありません。
おそらく歌川広重によって誇張されています。
富士山と愛鷹山の重なり具合的にこの辺りで間違いないと思います。
東海道五十三次の宿場14〜吉原宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
吉原宿は東海道で数少ない左富士(左側に富士山)が見える人気スポットでした。
東海道五十三次の浮世絵には中央に馬に乗って富士を眺める人、左に夕焼けの富士山、右に
現在は、浮世絵にも描かれている松並木の一部が写真の通り現存していましたが、左富士は建物の影響で全く見えませんでした。
松並木がここにしか現存していないので特定しづらいですが、大体この辺りではないかと思われます。
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東海道五十三次の宿場15〜蒲原 宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
蒲原宿は吉原方面に富士川を控えており、川止め(洪水やらで渡れない時)の時に大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には蒲原宿の町並み、右側には旅籠「和泉屋」?っぽい建物が描かれています。
現在は和泉屋(写真中央の古い建物)が休憩スペースとして残っています。
浮世絵と同じように奥に山が見え、和泉屋が右にあるこの場所で間違いないと思います。
東海道五十三次の宿場16〜由比宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
由比宿は普通の宿場レベルで賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には左端に難所
現在も薩埵峠から浮世絵と同じ景色を眺めることができます。(今回は富士山は見えませんでした)
浮世絵と全く同じ景色なのでこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場17〜興津 宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
興津宿は興津川の渡し(興津川を川越専用の人に担いでもらう)や難所薩埵峠を控えているため、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には左端に薩埵峠、奥に駿河湾、手前に興津川と川越専用の人(川越人足)が描かれています。
現在も薩埵峠を左に置いて、興津川を手前にした場所があり当時の面影がありますが、駿河湾は橋によって全く見えなくなっています。
薩埵峠と興津川の位置的にこの場所で間違いないと思います。
東海道五十三次の宿場18〜江尻宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
江尻宿は天然の良港の清水港があり、そこから物資の盛んにおこなれており、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には手前に清水港と船、中央右に三保の松原、左奥に愛鷹山とかの山々が描かれています。
現在も三保の松原も遠くの山々も変わらない姿でしたが、撮る場所も間違えたため、三保の松原が小さく、清水港を写真に入れることさえできませんでした。
浮世絵視点の場所はおそらくもう少し高いところ、久能山とかそこら辺の高い位置からのものだと思われます。
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東海道五十三次の宿場19〜府中宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
府中宿は徳川家康が将軍を辞めた後に大御所として政治を行った場所であったため大いに賑わいました。
東海道五十三次の浮世絵には中央奥に賤機山、手前に安倍川と川越の様子が描かれています。
府中宿の浮世絵なのでこの絵の先が府中宿のはずなので、同じ向きで写真を撮ると
浮世絵にある山がありません!
しかし、府中宿とは逆の向き(次の丸子宿の方)から写真を撮ると浮世絵に似た山がありました。
歌川広重はその場で絵を描かず、記憶を頼りに描いているのかもしれません。
とにもかくにも、浮世絵にある安倍川も山も同じ位置にあることから、この場所であることは間違いないと思います。
東海道五十三次の宿場20〜丸子宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
丸子宿は安倍川を控えていたため、川止めの時には大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵にはとろろ汁で有名な
現在も丁子屋は現役で営業しており、場所も当時のままでした!
店の後ろの山も同じですね。
これは誰が見てもこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場21〜岡部宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
岡部宿は難所宇津ノ谷峠を控えていたため賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には山の間にある
現在も写真の通り蔦の細道があります。
場所は情報が全くなかったため判断ができず、とりあえず浮世絵と雰囲気が似ているところを撮影しました。
多分浮世絵の場所はここではないです。
東海道五十三次の宿場22〜藤枝宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
藤枝宿は田中城(この城の主は江戸幕府の要職につけたほどの出世城)の城下町として発展し、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には問屋場(役所的なところ)で人足(運んでくれる人たち)と馬が新しい人足と馬に引き継がれている様子が描かれています。
現在、問屋場の跡は交番の敷地になっており、当時の面影は全く感じられません。
問屋場が昔あったことを伝える標識があったため、この場所で間違いないと思います。
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東海道五十三次の宿場23〜島田宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
島田宿は東海道の難所の1つ「大井川」を控えており、増水による川越禁止の際は江戸並みに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には大井川の川越が描かれています。
現在も大井川は健在ですが、橋を渡って越えることが可能です。
写真を撮った場所が浮世絵よりもだいぶ遠いです。
この河岸沿いで描かれたのは間違いないと思います。
東海道五十三次の宿場24〜島田宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
金谷宿は島田宿と同様に大井川を控えているため、増水による川越禁止の際に大いに賑わいました。
東海道五十三次の浮世絵には島田宿の浮世絵と同じ大井川の川越、さらに山の中腹に金谷宿の町並みが描かれています。
現在も大井川は健在で、写真の奥に金谷宿の町並みが見えます。
写真を撮った場所が浮世絵よりも左寄りですが、この河岸沿いで描かれたのは間違いないと思います。
東海道五十三次の宿場25〜日坂宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
日坂宿は小さい宿場であったものの、東海道の三代難所の1つ「小夜の中山」を控えているため、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には小夜の中山を登る旅人や駕籠かき(駕籠を担ぐ人)、中央には夜泣き石が描かれています。
現在も難所という言葉が似合うほど急な道です。
夜泣き石はここにあったことを伝える石碑はありましたが、別の場所に移されて今は浮世絵の場所にはありません。
浮世絵は木があまりない寂しい雰囲気ですが、今は木が生い茂っており、遠くの風景は全く見えません。
夜泣き石の石碑があり、浮世絵のような坂があるこの場所で間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場26〜掛川宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
掛川宿は掛川城の城下町として発展し、さらに秋葉山(火除けの神を祀っていて江戸時代には大人気スポット)へ参詣する人で賑わいました。
東海道五十三次の浮世絵には大池橋を渡る人々、右奥には秋葉山が描かれています。
現在も現代版の大池橋が残っています。
浮世絵には秋葉山がでかでかと描かれていますが、実際は大池橋からかなり遠いので全然見えません。
秋葉山は見えませんが、大池橋の位置が同じなのでこの場所で間違いないです。
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東海道五十三次の宿場27〜袋井宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
袋井宿は周りに参詣スポットで人気の山があったため、その参詣人たちで賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には遠くには袋井宿、手前には傍示杭(土地の境界に置かれた杭)と茶屋と人々が描かれています。
現在も同じ場所に傍示杭が復元されています。
写真的だけ見ると道の角度的にも浮世絵と同じ雰囲気ですが、浮世絵は右側に袋井宿があるのに対して、写真では右側に袋井宿があります。
上記の理由で写真の視点に関しては怪しいラインですが、場所としてはこの辺りで間違いないです。
東海道五十三次の宿場28〜見付宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
見付宿は天竜川を控えていたため、増水による川止めの際は賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には天竜川の船渡しの様子が描かれています。
現在も天竜川は健在ですが、写真を撮った場所が遠いため天竜川が微妙に見えません。
とにもかくにも天竜川があるこの辺りで間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場29〜浜松宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
浜松宿は浜松城の城下町として賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には手前に松の木の下で焚き木をしている人たち、右真ん中にはたくさんの松と共に立つ立札(掲示板)、右奥には浜松城が描かれています。
現在は浜松のいたるところに松の木が数本単位で残っていますが、当時のようにたくさん残っていないです。
立札に似たもので高札が写真真ん中の谷島屋に跡としては確認できます。
写真の視点が正しいとしても右奥には浮世絵のように浜松城が見えるはずですが、現在は建物が立っているため見ることはできません。
場所は正直怪しいです。
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東海道五十三次の宿場30〜舞坂宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
舞坂宿は今切の渡し(隣の新居との間を船で渡ること)を控えているため、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には左手前に防波堤のような杭、浜名湖に浮かぶ船、遠くの山々の先に富士山が描かれています。
今も浜名湖があり、いくつも船が浮かんでいます。
ただどうやっても富士山は見えませんでした。
東海道上だと富士山は見付宿から見えるようなのでこの絵はありえない景色になのかもしれません。(つまりよくわかりません)
浜名湖があり、その浜名湖に面している旧東海道がここなので、おそらくこの辺りだと思います。
東海道五十三次の宿場31〜新居宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
新居宿は新居関所が舞坂との間に今切の渡しがあったため、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には右奥に新居宿の町並み、手前に今切の渡しの風景が描かれています。
現在も写真の通り、新居宿が見えつつ、海に面している場所はありますが、情報が全然ないので浮世絵の場所が特定できませんでした。
浮世絵に描かれた新居宿の方向だけで推測すると、この辺りで間違いないと思われます。(写真は少し遠い場所になってます)
東海道五十三次の宿場32〜白須賀宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
白須賀宿は普通の宿場レベルの賑わいでした。
東海道五十三次の浮世絵には山の谷間から一望できる遠州灘(静岡と愛知に面してる太平洋上の海のこと)や漁村、手前に大名行列が描かれています。
現在も潮見坂公園跡で浮世絵と同じ構図の風景を見ることができます。
浮世絵の方がやや左寄りな気がしますが、浮世絵と同じ左寄りで撮れる場所がなかったので仕方なしです。
誰が見てもこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場33〜二川宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
二川宿は小さめの宿場でした。
東海道五十三次の浮世絵には山とそれを登ってる人、右手前には柏餅が有名な茶屋が描かれています。
現在は浮世絵に描かれている茶屋がなく、場所を特定できる情報が全くありません。
今度リベンジして写真を更新しておきます!
東海道五十三次の宿場34〜吉田宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
吉田宿は吉田城の城下町として発展し、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には修理してる最中の吉田城と豊川にかかる吉田大橋が描かれています。
現在も豊川とそこに架かる吉田大橋は残っていますが、吉田城は浮世絵でちょうど修理されている櫓?だけ現存しています。
浮世絵のような角度で写真を撮る場合は空中浮遊しないと無理です。
吉田城があったこの場所で間違いないと思います。
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東海道五十三次の宿場35〜御油 宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
御油宿は姫街道(見付宿と御油宿を結ぶ東海道とは別の裏ルート)を控えていたため、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には御油宿の町並みとともに、(現代でいう)キャッチの女性につかまる旅人が描かれています。
現在の御油宿は昔の建物がほとんど残っていませんが、残っているものもあり、当時の面影が見えました。
浮世絵の場所は全くわかりませんが、道の雰囲気的にこの辺りだと思われます。
東海道五十三次の宿場36〜赤坂宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
赤坂宿は御油宿と2kmくらいしか離れていない宿場でした。
東海道五十三次の浮世絵には旅籠(庶民の旅館)の大橋屋の中の様子が描かれています。
現在も大橋屋の建物が残っています。2015年までは営業していたそうです。
浮世絵は建物内を描いてますが色んな意味で物理的に不可能なので、写真に収めることはできませんでした。
場所はモデルとなった大橋屋があるので間違いないです。
東海道五十三次の宿場37〜藤川宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
藤川宿は普通の宿場レベルで賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には棒鼻(ここから先は○○宿と知らせる杭)や何かの行列、行列を迎えに出た人が描かれています。
現在も棒鼻は復元され、当時の姿で存在していました。
木の雰囲気、棒鼻の存在から誰が見てもこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場38〜岡崎宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
岡崎宿は岡崎城の城下町として発展し、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には矢作川に架かる矢作橋を渡る大名行列、右奥に岡崎城が描かれています。
現在も浮世絵に描かれている矢作川、矢作橋、岡崎城はしっかり現存しています。
今は橋を通っている行列が大名行列ではなく車の行列でした。
浮世絵の構図がほぼそのままのこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場39〜知立宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
知立宿は馬市や木綿市などが開かれていた市場ポジションであり、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には馬市のための馬、奥には競りをしている人々が描かれています。
現在は馬市も木綿市も開かれていませんが、馬を繋いでいた松並木はしっかりと残っており、当時の面影が感じられます。
馬を繋いでいた場所であるこの辺りで間違いないと思われます。
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東海道五十三次の宿場40〜鳴海宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
鳴海宿は鳴海絞り・有松絞りという染物の産地として賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には染物屋と買い物に来たっぽい女性や旅人が描かれています。
現在も浮世絵と同じ雰囲気の道と古い建物、そして何より有松・鳴海絞りは伝統工芸品として今も残っています。
浮世絵だけではどこの染物屋かわかりませんが、この辺りであることは間違いないと思います。
東海道五十三次の宿場41〜宮宿〜
【昔】
出典:Wikpedia
【今】
宮宿は熱田神宮の門前町(寺社周辺の町)として発展し、七里の渡し(宮宿と隣の桑名宿の船渡し)を控えており、東海道最大の宿場町として大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には駈馬という神社の行事に参加する人々と馬、手前には熱田神宮の鳥居が描かれています。
現在も浮世絵と同じ熱田神宮の鳥居はありますが、赤色ではありませんでした。
この赤い鳥居も歌川広重の誇張です!(神主さんにも確認済み)
浮世絵のように鳥居の上の部分を写真に収めることは物理的に不可能でした。
とは言っても、浮世絵に描かれた鳥居があるこの場所は間違いないです。
東海道五十三次の宿場42〜桑名宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
桑名宿は七里の渡し(桑名宿と隣の宮宿の船渡し)を控えている港町として、また、伊勢参りの玄関口として賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には桑名城と船による桑名宿側の七里の渡しの様子が描かれています。
現在は桑名城の櫓が復元されて今も存在しています。
浮世絵の構図に近いこの辺りで間違いないと思われます。
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東海道五十三次の宿場43〜四日市宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
四日市宿は十里の渡し(宮宿と四日市宿の船渡し)を控えており、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には風で転がっていく笠を追いかける人、三滝川に架かる板の橋を強風の中を進む旅人が描かれています。
現在も三滝川は流れており、板の橋ではないですが三滝橋がかけられていて当時の面影がしっかり残っています。
三滝川も橋もあり浮世絵と構図も一緒なのでこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場44〜石薬師 宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
石薬師宿は石薬師寺の門前町(寺社周辺の町)として発展していましたが、あまり賑わってはいなかったようです。
東海道五十三次の浮世絵には木々の間に見える石薬師寺の正門、寺の前の道を歩く人々、奥には山々が描かれています。
現在も石薬師寺は同じ場所に存在しています。
浮世絵の視点は写真を撮った位置よりもう少し後ろですが、石薬師寺があるこの場所であることは間違いないです。
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東海道五十三次の宿場45〜庄野宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
庄野宿は石薬師宿と同様にあまり賑わっていなかったようです。
東海道五十三次の浮世絵には大雨と強風の中を進む人々が描かれています。
浮世絵のような断崖の場所は旧東海道を歩いていても見当たらなく、浮世絵に最低1つはあった場所を特定できるものもないため全く分かりませんでした。
庄野宿の資料館に行った時に、そこのお母さんから「もしかしたら加佐登駅(この駅名はあやふやな記憶です)の近くかも」とヒントをいただいたので今度リベンジしてみます。
東海道五十三次の宿場46〜亀山宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
亀山宿は亀山城の城下町でしたが石薬師宿や庄野宿と同様にあまり賑わっていなかったようです。
東海道五十三次の浮世絵には雪景色の亀山宿、雪道を登る大名行列、亀山城の京口門(亀山城にある京都方面の門)が描かれています。
現在は亀山城は櫓が残っているのみで、浮世絵に描かれている京口門はありません。
写真右にある掲示板のあたりが京口門があった場所であるため、角度的にこの辺りで間違いないと思われます。
東海道五十三次の宿場47〜関宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
関宿は東海道の三代難所にして最後の難所"鈴鹿峠"を控えていたため、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には川北本陣(大名などの偉い人専用の宿)で出発の準備をする人々が描かれています。
現在も関宿では当時の古い町並みが多く残されていますが、本陣などは現存していません。
写真の場所が川北本陣があった場所なので、浮世絵の視点はここからで間違いないです。
東海道五十三次の宿場48〜坂下宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
坂下宿は関宿と同様に鈴鹿峠を控えており、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には筆捨山と茶屋で休憩する人々が描かれています。
現在は写真の通り、筆捨山は変わりませんが、浮世絵に描かれた茶屋はありません。
しかし、断崖と筆捨山という浮世絵と同じ構図から当時の面影が見えます。
写真と浮世絵を見比べても一目瞭然でここで間違いないです。
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東海道五十三次の宿場49〜土山宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
土山宿は京側から進むと難所鈴鹿峠を控えている宿場であったため、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には手前に田村川に架かる田村橋を大雨の中渡る大名行列、左奥に田村神社が描かれています。
現在も写真の通り田村橋(今は海道橋という名前)も田村川もあり、木々の奥には田村神社があります。
橋、川、神社の位置が浮世絵と同じなのでこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場50〜水口宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
水口宿は水口城の城下町として発展し、賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵にはひょうたんを作る様子が描かれています。
現在も歩いているときにひょうたんを干している場所を見かけましたが、浮世絵の場所は特定できるものがないため分かりません。
浮世絵の奥に水口宿が描かれているので、宿場の出口付近と仮定すると写真のあたりになります。
水口宿も今度リベンジしてきます。
東海道五十三次の宿場51〜石部宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
石部宿は京都出発の人からすると最初の一泊目にあたる場所で「京立ち石部泊り」と言われ、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には豆腐田楽が食べられる「伊勢屋」、店の前で踊ってる人が描かれています。
現在は「伊勢屋」はなく写真の通り住宅街になってますが、ここに残っていた証拠である石碑(写真中央の住宅の右)がしっかり残っています。
伊勢屋というお店はこの写真の隣にもあり、二店舗あったようで、どちらが浮世絵に描かれている伊勢屋か特定できませんでした。
ただし、田楽発祥の伊勢屋(写真中央の住宅地にあった)の可能性の方が高そうで、この辺りで間違いはないと思われます。
合わせてこちらの記事もどうぞ!
東海道五十三次の宿場52〜草津宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
草津宿は五街道のひとつ"中山道"の合流地点であり、琵琶湖もあったため交通の要衝として発展し、大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には中央上に名物
現在は姥ヶ餅ではなくひょうたんを販売するお店になっていますが、写真のお店の右脇に道標(ここから○○です!って伝えるやつ)がありました。
この道標こそ、浮世絵のお店の右脇に描かれている道標です。
茶屋の場所が明確で、浮世絵と同じ道標もあることから、誰が見てもこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場53〜大津宿〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
大津宿は琵琶湖の南にあるため、舟による交通や輸送が行われており、東海道最大の宿場として大いに賑わっていました。
東海道五十三次の浮世絵には手前に牛車で物資を運搬する人々、左端に清水が湧き出る走井井戸、走井井戸の水を使った走井餅が名物の走井茶屋が描かれています。
現在は茶屋の姿は見えませんが、写真の月心寺が走井茶屋の跡に建てられており、中に走井井戸が現存しています。
浮世絵と同じ走井井戸があるこの場所で間違いないです。
東海道五十三次の宿場終点〜京三条大橋〜
【昔】
出典:Wikipedia
【今】
京の三条大橋は東海道の江戸方面から来た場合の終点にあたります。
1590年に豊臣秀吉によって石柱の橋に改修され現在に至ります。
東海道五十三次の浮世絵には中央に賀茂川に架かる三条大橋、奥に今日の山々が描かれています。
現在も賀茂川および三条大橋は当時とほとんど変わらず存在していますが、浮世絵にもある山々は建物で隠れていて全く見えません。
三条大橋と賀茂川が浮世絵と同じ構図なので誰が見てもこの場所で間違いないと思います。
合わせてこちらの記事もどうぞ!
東海道五十三次の今と昔を写真と浮世絵で比較してわかったこと!
東海道五十三次の浮世絵55枚分(53の宿場+スタートの日本橋とゴールの三条大橋)を写真バージョンと比較して紹介しました。
奇跡的にも当時と変わらないものもあれば、全然面影すらないところもありました。
1つ言えるのは、
確かにそこには江戸時代があったということです!
よく散策して歩いてみればきっと何かしら江戸時代の痕跡が見つかりますよ。
また、
水のあるところは栄える!
ということにも改めて気づきました。
人類文明の歴史の始まりとも言える四代文明。
メソポタミア文明。
エジプト文明。
インダス文明。
黄河文明。
メソポタミア文明はチグリス川・ユーフラテス川から。
エジプト文明はナイル川から。
インダス文明はインダス川から。
黄河文明は黄河からから。
どの文明も川、つまり水のあるところから文明が起こっているのです。
水があるところは人が集まり栄えるのです!
何千年も変わらないこの事実は本質なのかもしれませんね。
最後に一言。
最高でした!
【少しでも参考にしたもの】
・五街道ウォーク・八木牧夫著『ちゃんと歩ける東海道五十三次 東』山と渓谷社
・五街道ウォーク・八木牧夫著『ちゃんと歩ける東海道五十三次 西』山と渓谷社
・浮世絵のアダチ版画 ホームページ
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東海道五十三次を歩く企画をして思ったこと、気付いたこと、感じたこと、
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
17日後の4月3日にゴールの京都三条大橋に到着しました。
この約520kmの道のりを歩きながら多くのものを見て、いろんなことを考えました。
今回は僕が東海道五十三次を歩いて特に思ったこと、特に気付いたこと、特に感じたことを話していこうと思います。
要するに僕が一番言いたいことを言います。
【東海道五十三次を歩くシリーズ】はこちらの記事にまとめているのでじっくり読んでみてください!
東海道五十三次を歩く企画をして思ったこと「僕らは歩かなくなった!」
江戸時代まで自転車も車もなかったため、基本的には移動手段は徒歩でした。
つまりどこに行くにも歩いていたのです。
今はどうでしょうか。
移動する手段に自転車や車や電車など移動手段は豊富で便利な世の中になってます。
便利になって歩く必要が無くなり、僕らは歩かなくなったのです!
よく、コンクリートの上を歩いているから足が痛いと聞きませんか?
確かにコンクリートの上を歩くのは土の上に比べると負担が大きく足が痛くなるかもしれません。
しかし実際は歩かなくなったからそういう言葉が出るんです!
今の僕らにはシューズという素晴らしい歩くためのアイテムがあります。
江戸時代の人たちは今のようなシューズはなく、基本は草履でした。
足の露出の多く、しかも足の負担を軽減するクッションのようなものもない草履で地面を歩いていたのです。
草履を履いて土の地面を歩いていた江戸時代。
シューズを履いてコンクリートの上を歩いている現代。
歩く環境は総合的に見ると同じレベルなのかもしれませんね。
歴史を知っていると、歩くと痛いとか疲れるは言い訳でしかないことを知ります。
運動しなさすぎ歩かなすぎの僕は17日間かけて東京から京都まで歩いたんですが、足がめちゃくちゃ痛かったです。
江戸時代の人たちも参勤交代や旅で僕と同じくらいかそれ以上の距離を歩いているはずですよね。
なのに、足が痛いという話は全く聞いたことありません。
常に歩いているので慣れていたのかもしれませんし、
もしかしたら、しっかりかっこよく行列で歩いている侍の中に
「足めちゃくちゃ痛んだけど…」
なんて心の中で思いながら我慢して歩いている人がいたのかもしれませんね。
最近、歩いた記憶がほとんどない方!
たまには初心に戻って歩いてみましょう!
東海道五十三次を歩く企画をして気付いたこと「やっぱり継続は力なり!」
17日間歩いた中で、一番辛かったのは前半くらいでした。
初日は体力満タンの元気状態だったので、すごい歩くことができて1km14分ペースで37kmほど歩けました。
2日目は30kmに落ち着き、ペースは1km20分とかなり落ちました。
3日目は20kmにさらに落ち、ペースは2日目の同じ20分でした。
かなり遅くなってますよね。
この後も距離が20km代が多く、あまり遠くまで歩けてませんでした。
でも後半になると、38km歩いてるのにペースは13分だったり、35km歩いて15分ペースだったり圧倒的に距離もペースも伸びました。
継続して歩いているうちに足が慣れたんです!
毎日足が痛いのはデフォルトでしたが、距離とペースは上がっていったのです。
これがまさに継続は力なりってやつです。
17日間という短い間に継続がすごい力を生み出すことを身を以て体感しました。
この歩く旅を経験して、ブログも動画も今は結果が出てないけど、いつか出ると確信して継続していこうと改めて思いましたね。
みんなも何か成功させたいこと、結果を出したいことがあればとりあえず継続して頑張ってみましょう!
誰でもできて最強の方法こそ
・
・
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継続です!
東海道五十三次を歩く企画をして感じたこと「道には歴史が生きている!」
17日間約520kmに及ぶ距離を歩いている間に色んな歴史を見てきました。
時には城や建物、時には石や木など多くの見える歴史がありました。
www.sho0310.com
でも見える歴史が全てではありません。
実際には見えないけど確かにそこにはある「見えない歴史」もたくさんありました。
それが「道」です!
曲がりくねった道を歩いたならそこは城を守るための道だったということ。
石で敷き詰められた道を歩いたならそこは江戸時代の人たちが歩きやすいようにするための道だったということ。
今の東海道など主要道路から外れた道で変な形になっている道があったら、それはきっと昔の東海道かもしれません。
何の変哲もないただの道にもそこには歴史があるのです!
もちろんその道で起きていた歴史を知らなくては気づくことはできませんけどね。
写真は幕末の生麦事件の舞台となった道です。歴史を知らないとどう見てもただの道ですよね。
逆に言えば、その道の歴史を知っていれば、その道を歩いただけで歴史が見えてきますよ。
だって、
道には歴史が生きているんですから!
大昔から今まで、数えきれない数の人たちがその道を歩いていたんです。
その歩いた分だけ歴史があり、その歴史は時代の数だけ生きています!
みんなの住んでいる周りの道にももしかしたら面白い歴史があるかもしれませんよ!
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【東海道五十三次を歩く!17日目】毎日歴史観光できる京都が羨ましい!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は17日目滋賀県の大津市からのスタートです。
前回の16日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「逢坂関はうなぎ注意」
今日の実況はここ
石碑があるけどここが関があった場所ではありません。(関の場所は分からないらしい)
逢坂関は平安時代に都を守るために置かれた関所で、三重県の鈴鹿関と岐阜県の不破関と並び三関の1つです。
大昔から琵琶湖を要する大津と京都を結ぶ交通の要衝でした。
ここにも馬の水飲み場がありました。
鈴鹿峠の時といい、馬の水飲み場だけはやたらと残ってません?
東海道沿いで人馬の往来が激しいから馬の水飲み場があって、街道沿いで需要も多いから残ったんだと思います(多分)
馬に乗って東海道五十三次を歩いたら活用できるぞ!
まずは馬に乗るところからな…
歩いていると突然うなぎの国に迷い込んだのか、
うなぎ注意!
うなぎが通りますよ!
みたいな標識がありました。
道路横切る前にアスファルトの上で干からびて蒲焼きになってそう…
東海道五十三次を歩く!「京に行くか大坂に行くか」
歩き続けていると、道が綺麗に分かれている場所に来ました。
だいぶ前に姫街道の追分でも登場しましたね。
今度の分岐は右が京に続く東海道。
左が伏見、大坂に続く伏見道です。
トロッコゲームみたいな二択だな。
左に進んだら一生京都に着きませんね。
なんでここで分かれているかというと、参勤交代してる大名が京都に入って朝廷に接触するのを江戸幕府が嫌ったためです。
つまり、
参勤交代の場合は大名たちはここから左に進んだのです!
なぜ嫌うのか?
それはもう歴史が教えてくれていますね。
江戸時代もあくまで幕府が政治をする権利を朝廷から借りて行なっていました。
朝廷および天皇が日本のトップなのはずっと変わってないのです。
幕末に何が起こりましたか?
朝廷と結びついた藩(大名とかその家臣たち)が幕府を倒しましたよね。
おそらく幕府はそういう不安要素を前もって取り除くため、大名と朝廷の接触をさせないようにしていたんだと思います。
道1つから歴史の背景や色んな思惑が伝わってくるの面白いですよね。
ここで、ちょうど同じく東海道を歩いていた老夫婦に会いました。
歳を重ねても夫婦一緒に東海道を歩くっていいですね。
さてラストスパート頑張ります!
東海道五十三次を歩く!「車が通るための専用道路があった!」
歩いてたら道の脇に変わった石が置いてあったんですよ。
車石です!
昔は
江戸時代の地面って覚えてます?
竹とか石とか土でしたよね。
人でさえ転ぶのにタイヤのある牛車なんてさらに危ないですよね?
なので牛車専用道路みたいなものを作っていました。
それが車石です!
車石を道の脇に敷き詰めて、その車石の溝をタイヤにはめて進んでいました。
だからなんか溝があるのか!
なんだかんだ江戸時代も不便ばかりではないということですね。
東海道五十三次を歩く!「明智光秀の首塚はひっそりと」
そしてそしてついに!
京都に入りました!
京都に入ったもののまだゴールではないのでゴール目指して歩き続けます。
坂本龍馬とお龍の結婚式場跡がありました。
坂本夫妻といえば日本初の新婚旅行をしたようですね。(諸説あります)
そして、たまたまグーグルマップに出てきて気になった場所に行きました。
明智光秀の首塚です!
※明智光秀とは…
戦国時代の武将で織田信長の部下。
1582年に本能寺の変で織田信長を倒して一時的に天下を取ったものの、中国地方での仕事から全速力で帰ってきた豊臣秀吉と戦って破れる。
負けて逃げている途中に農民に襲われて死亡した。
明智光秀が逃げている途中に農民に襲われたため、部下がせめて光秀の首だけは渡すまじと持っていこうとしました。
だけど夜が明けてしまって、見つかったらヤバめだったのでこの地に埋めたと言います。
明智光秀の首塚は有名な人とは思えないくらい路地裏にひっそりとあるので、まだ行ったことない人はぜひ!
【明智光秀の首塚へのアクセス】
首塚へ行くまでの道がマジで京都オーラ全開でした。
こういうやつ。
東京は便利だけど京都は京都で毎日歴史観光できて羨ましいなと思いました。
そう思うのは歴史好きだけです…
東海道五十三次を歩く!「京都の三条大橋」
そしてゴールの三条大橋に到着しました!
出典:Wikipedia
東海道五十三次でも描かれています。
遠くに見える山が建物で見えてない以外はほとんど一緒ですね。
三条大橋はできた時代は分かっていないようですが、豊臣秀吉の命令で石柱の橋に改修されたのは1590年です。
橋に何個か見える某ドラゴンクエストのスライムのようなフォルムの
当時のまま現存してるのスゴい!
14個あるうちの2個の擬宝珠には刀傷があります。
この傷は幕末の池田屋事件の時についた傷と言われており、当時の斬り合いの激しさを物語っています。
※池田屋事件とは…
幕末に京都の旅館「池田屋」に潜伏していた
京都御所に火を放ち、幕府の重要人物を暗殺し、天皇を連れ去るという計画を新撰組は未然に防いだとされている。(諸説あり)
放火に殺人に誘拐って極悪すぎる…
今日は約12kmほど歩き京都の三条大橋に着きました。
そして17日間に及ぶ歩き旅「東海道五十三次を歩く」略して一人参勤交代が無事に終わりました。
総歩行距離は約520km。
総歩数は約861294歩。
正確な距離と歩数ではありませんが、大体どのくらいなのかの物差しになれば幸いです。
今後、東京から京都まで歩いていこうと思っている江戸っ子の方はぜひ参考にしてみてください!
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【東海道五十三次を歩く!16日目】急がば回れと夜の琵琶湖はエモいという話
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は16日目滋賀県の甲賀市からのスタートです。
前回の15日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「和中散と肩かえの松」
今日は滋賀県甲賀市の石部宿からスタートです。
鳩かな?と思ったら城でいうシャチのポジションのやつの初バージョンでした。
珍しいな!
こちらは旧和中散本舗です。
1日目にも神奈川県の梅屋敷を訪れた時に「和中散」という名前を聞きましたね。
その和中散を扱う本家がここです。
和中散は道中の長旅のお供的な薬(漢方薬)で、腹痛や暑さによる症状に対して服用されていました。
徳川家康が腹痛を起こした時にこの漢方を飲んだらすっかり治ったので、その漢方を「和中散」と命名すると、たちまち評判になっていったそうです。
家康のインフルエンサー力がすごい…
そしてちょっと歩くと、肩かえの松というものを見つけました。
なにこのアングル…
松を物理的に全部写すにはこれしかなかった…
どうやら江戸時代に旅人がこの松の下で休憩して、荷物を担ぐ肩を入れ替えていたようです。
せっかくなので僕もチョコレート食べながら休憩。
よし!
行きますか!
東海道五十三次を歩く!「元祖鳥カフェと馬の老人ホーム」
ここには昔すずめ茶屋というかわいい名前の茶屋があったんですね。
その昔、ここには菜飯と豆腐田楽が名物の茶屋があって、その茶屋の近くにすずめが群がる木があったことから「すずめ茶屋」という名前になっています。
もしや、元祖鳥カフェでは?
こちらは田楽発祥の地である田楽茶屋「元伊勢屋」の跡です。
田楽といえば豆腐やこんにゃくに味噌を塗って焼いた料理で、特に田楽豆腐は有名ですよね。
その田楽がここで生まれたようです!
今は普通の住宅になっていました。
僕らの身の回りにあるもので江戸時代に生まれたものは結構ありますね。
田楽関連でいくと、今のスタイルの居酒屋が生まれたのも江戸時代です。
ちょっと気になって足を止めたのがこちら。
老牛馬養生所跡。
江戸時代のある日。
そして岸岡は「老牛馬であっても息のあるうちは殺しちゃダメだよ!」と呼びかけ、ここに老牛馬が余生を静かに過ごせる場所(養生所)を設立したのでした。
老牛馬が集まる牛馬の老人ホーム感。
なんていい話だ…
石部宿はすずめや馬のお話など偶然にも動物と関係が深い宿場でした。
東海道五十三次を歩く!「草津=草津温泉とは限らない!」
やってきました草津宿です!
関宿の宿の人たちに「草津温泉は違う草津」と言われるまでは、ここが草津温泉の場所だと思ってました。
到着とともにすごいアートがありました。
今ちょうど放送中の大河ドラマ『いだてん』のような爽快に走っている作品ですね。
「時の旅人」という作品のようです。
そしてこちらはお馴染みの本陣(大名とか偉い人の宿泊所)跡。
現存する本陣では最大級です!
歩いていると気になる名前がちらりと。
太田酒造道灌蔵!!
太田道灌といえば江戸城を築城した武将です。
絶対関係ありそーと思い、調べてみたらやっぱりでした!
江戸城を築城した太田道灌から三代目の太田さんがこの宿場で酒造りをしたのがこの"太田酒造道灌"の始まりのようです。
銘酒「道灌」が有名です。
日本酒好きの方はぜひ飲んでみてはいかかでしょうか。
いつかは飲んでみたいと思いながら歩いていると、公園に差し掛かりました。
この公園の道が江戸時代の東海道そのものなんです!
旧東海道の地図なかったらここが東海道なんて絶対分からない…
こうやって昔の道がこっそり残されてるんですね。
東海道五十三次を歩く!「瀬田橋と琵琶湖」
急にご立派な橋が出てきました。
瀬田唐橋です!
琵琶湖の南側から流れる瀬田川にかかる橋で、明治時代までは琵琶湖を避けて通れる橋はここくらいしかなかったので交通・軍事の要衝でした。
琵琶湖を避ける?
琵琶湖は西に比叡山などの山々があることで、そこから降りてくる強い風が直に浴びる場所なのです。
箱根の風が強かった現象と多分同じです!
琵琶湖を船で横切る最短ルートがあったんですが、風が強いと船が出なかったり、危なかったりするんです。
参勤交代とかもそうですが、急いでる人にとっては不確定な道は怖いですよね。
なので、琵琶湖を大きく回って瀬田唐橋を渡るルートが江戸時代は使われることが多かったのです。
これが「急がば回れ」の語源になりました!
急がば回れって江戸時代にできた言葉なのか!
せっかくなので琵琶湖にきました!
なんだかんだ初めて琵琶湖に来たので大興奮です。
たまたま城が昔あったところに来たようです。
その名も
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が東海道の抑えとして琵琶湖に築かせた城です。
水面に浮かんでいるように見えるため湖上の浮城と言われていました。
今は堀の一部とかくらいしか残っていません。
写真の城っぽいやつは城っぽい何かです。
興奮のあまり、写真撮ったり散策してたらすっかり夜になってしまったんですけど
・
・
・
めちゃくちゃ綺麗じゃないですか?
水色が好きな僕にはたまらない空間でした。
エモめな写真も撮れました。
東海道を歩いたからこそ撮れた一枚です。
昔の人はどんな琵琶湖を見ていたんでしょうね。
今日は約29km歩いて、大津市まできました!
明日はついにゴールの京都です!
17日目の記事はこちら!
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【東海道五十三次を歩く!15日目】鈴鹿峠の範囲は分からんが、江戸時代の人の気持ちは分かった!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は15日目三重県の亀山市からのスタートです。
前回の14日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「さらば関宿!目指すは鈴鹿峠!」
東海道を歩く旅を始めてここまで会話っぽい会話はほとんどしていませんでした。
由比宿の時くらいですね。
なので、この宿で色んな人たちとわいわい会話ができて楽しかったです。
出発して振り返ると、昨日から一緒だった店主と旅人たちが手を振ってくれていました。
ありがたいですね。
そのままかなり歩いて後ろを振り向いたんですよ。そしたら、
まだ手を振ってくれてたんです!
旅人宿石垣屋、関宿、ありがとう!
そして江戸時代にタイムスリップしたかのような関宿を抜けて目指すは鈴鹿峠です!
東海道五十三次を歩く!「鈴鹿峠の範囲が分かりづらい!」
僕的にはここら辺かなと思ったところがあるんですよ。
ほら!
なんか雰囲気ありません?
ここだと僕は思ってて、めっちゃブログ記事用の写真撮ってました。
いわゆるジョジョ立ちをしてこれから難所「鈴鹿峠」倒します的なやつです。
※ジョジョ立ちとは…
ジョジョの奇妙な冒険というアニメ漫画に出てくるキャラクターの独特的な立ち方をジョジョ立ちという。
とにかく独特的なため、再現できるの?ってレベルのものもたまにある。
そして実際に撮った写真がこれ。
"顔が写ってない!"
もう一枚がこちら!
"絶妙に顔が写ってない!"
カッコつけたポーズを決めてるのに顔が写ってないほどカッコ悪いものはないです。
鈴鹿峠だと思いながら歩いていると、
日本橋、品川…と書かれた柱が出てきました。
その柱は東海道五十三次の全宿場の名前が彫られて順番に並んでいました!
まさに走馬灯のようでした。
死んだことないだろ…
こんなに歩いたんだな!と振り返れる場所で感慨深かったです。
最後の京都三条大橋の柱。
僕はここを目指すんです!
そしてとうとう鈴鹿峠の入り口に到着!
と思ったら…
ここも違ったようです!
雰囲気完全に峠やん!
見た目だけで判断してはいけないということでしょう。
鈴鹿峠に見えた謎の山道を越えるとやっとありました!
正真正銘「鈴鹿峠」です!
しっかりもう一度ジョジョ立ちをかまして、いざスタートです。
写真見て思うのは、、、
ジョジョ知らない人が見るとただの中二病こじらせた人にしか見えない…
ジョジョに関連の記事も書いてるのでぜひ読んでみてください!(完全に中身は歴史なのでジョジョ知らなくても大丈夫です!)
さっそく、馬の水飲み場がありました!
昔はここを馬も通っていたということでしょう。
ゴール!
は?
いゃゴールです!
端折り過ぎてない?さすがにもう少し実況しないと!
いゃ終わったんです。
終わった…
(以下僕の心の声)
この時まで鈴鹿峠=最後の難所=厳しい戦いだと思ってたんです。なので身構えて歩いてたらいつの間にか鈴鹿峠が終わってたんです。
つまり写真撮るタイミングを逃したんです!
実は前日に泊まった「旅人宿 石垣屋」でも言われてたんですよ。
「鈴鹿峠は大したことない!」
でも東海道三代難所の1つであり、東海道最後の難所なので、絶対厳しい戦いになると思っていたんです。
肩書きを鵜呑みにしてしまっていたんです!
蓋を開けてみたら本当に大したことありませんでした!
おかげさまで何にも写真撮れてないです!
ただ、鈴鹿峠は江戸時代の頃は難所と言われていたのは間違いないようです。
今みたいに道が整備されていないし、山賊(山に潜んで悪さするやつ)がいたともいうので、確かにここは難所だったんでしょう。
山賊といえば小谷の中山にも悲しいエピソードが。
とにもかくにも、鈴鹿峠の範囲が終始わかりませんでした!
東海道五十三次を歩く!「甲賀と言えば忍者」
作った人が現代にいたら間違いなくジェンガ上手そうな常夜燈(江戸時代の街灯)を見つけました。
すごい絶妙なバランスやな…
そして滋賀県入りです!
甲賀に入ったらさっそく、
犬に吠えられました。
番犬ガオガオをやってる気分です。
今回東海道を歩いていてやたらと吠えられるんですよね。
東海道沿いに番犬多い説あります!
甲賀市に入った途端に変な標識が出現します。
目が死んでる少年たちの標識です。
こんな不気味な標識がいたるところにありました。
不気味だけどなんかちょっと腹たつ顔してます。笑
ここは海道橋といい、昔は通るのに三文(1文=15円とすると45円)取られていたそうです。
橋でさえ金取られる時代なのか…
この時代は川がビジネススポットだったのかも。
ただし、取られるのは旅人とかくらいで幕府に用がある人、武家の家族、毎日橋を渡って生活しないといけない近隣の百姓は無料でした。
出典:Wikipedia
ちなみに東海道五十三次でも描かれてる橋です。
この橋を渡りきると、急に神社の雰囲気が出てきます。
それもそのはず、東海道が神社の境内を通っているのです。
なんかすごい…
そしてそして道の駅に着きました。
僕は今回初めて道の駅を体験するまで、ずっと道の駅=田舎の無人駅か何かだと思ってました。
休憩したり食事ができる施設のことを道の駅と言うんですね。
ここで昼休憩ということで、「かやくセット」といういかにも物騒な名前のものを注文しました。
やってきたのは名前とは真逆にとても優しそうな料理でした。
爆発の心配はないな!
とり五目のようなものに、うどん、大根の煮付け、たくわんのセットです。
よく考えたらここは甲賀でしたね。
甲賀といえば忍者ですよね。
だから忍者をイメージできる「かやく」という名前が使われているんですね。
ちなみに甲賀の読み方は「こうが」ではなく「こうか」が正しいようです。
それは初めて知った!
Me too…
甲賀忍者の始まりは戦国時代の六角氏という家の侍が始まりとされています。
つまり立派な武士だったのです!
普通の武士とは違い、山中でのゲリラ戦を得意としたり、薬売りとかをしながら各地を歩いて情報収集をしていました。
薬売りをしていた名残で、今でも甲賀市には製薬会社が多いそうです。
みなさん、忍者=黒装束を思い浮かべますよね。
実は忍者は黒装束なんて着ていません。
忍者のメインの仕事は実はスパイとして情報収集することです。
だから先ほども言った通り、薬売りをしながら、時には農民の服装に変装して各地で情報収集してました。
意外にイメージとは違う部分が多いですね。
話が手裏剣のように逸れましたが、かやくセットはとても美味しかったです。
東海道五十三次を歩く!「水口と曳山祭り」
続いてやってきたのは甲賀市にある水口宿です。
水口宿を歩いていたら、
この機械が突然音楽とともに動き出しました。
水口のからくり時計です!
なんか中で祭りっぽい雰囲気になってる…
実は水口のご当地祭り"
曳山とは祭りの時に引いたり担いだりする出し物のことです。
神輿とかも曳山ですね。
水口の曳山祭りは江戸時代の中頃、この町の人たちの力によって誕生しました。
歴史が引き継がれてますね!いいですね!
このからくり時計は一定の時間帯に始動するようで、僕は偶然そのタイミングに通ったため、カラクリが始動するところを見ることができました。
運が良かったです。
水口宿の出口に向かっていたら、なんか石が置いてあったんですよ。
力石です!
ここにも力石ありました。
ここの場合はしっかりと「水口石」という名前になってました。
この石は前回の力石と違い、江戸時代から知られている石です。
なんともないただの大石も、力くらべに使われることで歴史名所になるんです!
江戸時代の娯楽の無さ…
ゲームがある現代マジ最強!
東海道五十三次を歩く!「地方は暗すぎる」
すっかり暗くなりましたね。
いゃ、暗すぎだろw
これは19時現在の甲賀市の写真です。
東京なら全然明るい時間帯ですが、甲賀市ともなるとご覧の通り、
宇宙ですね!
宇宙の方が明るい可能性…
写真を見ての通り、まだ車のライトと一軒のコンビニか何かの電気がついてるので100%の真っ暗ではありません。
この少しの光が消えた状態が江戸時代の夜だとすると、昔の人が夜は出歩かない理由が見えてきますね。
怖すぎます!
足元すらスマホのライトつけないと見えないです。
江戸時代まではこれ以上暗くて、山賊やら辻斬り(道端で人を切ってる人)がいる治安の悪さですから、外に出たら命がないですね。
平成で良かった!
そんな暗闇の中、しっかりと照らしてくれていた奴がいました。
常夜燈です!
もう東海道五十三次を歩くシリーズではなんども登場するお馴染みの歴史名所ですね。
この常夜燈はかなりでかいですが、それもそのはずで、
東海道最大の常夜燈なんです!
真っ暗な中に1つあった常夜燈。
江戸時代の人たちの気持ちが分かった気がします。
常夜燈最高!ありがとう!
今日は約35kmを歩いて、甲賀市まで来ました!
明日は琵琶湖のある滋賀県に突入です!
【16日目の記事】
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【東海道を歩く旅人にオススメ!】歴史と笑いが絶えない宿「旅人宿 石垣屋」
どうも!江戸時代からこんにちは!しょう(@shos_history)です。
こういう顔をはめて写真撮影ができる場所はすごい嬉しいです。
ただ…
一人旅なのでカメラの設置から撮影、そして変顔まで一人でこなすのでとても恥ずかしいです。
変顔いらなくね?
一応隣の殿様っぽい方も顔をはめてみたんですが、
顔がはまってないんですよね。
なんちゅう顔してんねん。
これ実は、顔をはめる部分に無駄なものが取り付けてあって全く顔を近づけられないんです。
どうりで顔が小さいわけだ。
僕がいるのは江戸時代の古い町並みを多く残している三重県亀山市の関宿です!
隣が東海道の最後の難所鈴鹿峠ということで、江戸時代にはここで休んでいく人が多かったと言います。
関宿に至るまでの記事はこちらをチェックです!
鈴鹿峠を控えているので僕もここで休もうかと思い、旅籠(旅人の宿泊所)を探していたらあったんですよ。
旅人宿 石垣屋!
今回はこの宿の中を紹介しつつ、泊まった僕の感想を話します!
「旅人宿 石垣屋」とは?
全国から不思議と色んな旅人が集まる宿、それが「旅人宿 石垣屋」です。
基本的には行けば誰かしら旅人さんがいます。
僕が今回行った時も色んな人がいました!
宿自体が店主とその家族の家になっているので元気な子供たちとも遊べますよ!
古民家ゲストハウスということで、
こういったゆったりできるハンモックのあるスペースもあったり、
訪れた旅人たちが置いていったお酒がずらりとあったり。
こういうお酒を夜にみんなでわいわい話しながら飲みます。
控えめにいって最高でした。
漫画スペースもあります。
ここは料理できるスペースですね。
お風呂場もありますよ。
ここだけ謎の近未来感…
さらに詳細を知りたい方はこちらのホームページをチェック!
「旅人宿 石垣屋」が全体的に歴史がすごい!
この宿は築120年以上も経っている家で、家自体が歴史の塊になってます。
泊まりに来た瞬間に「寛永通宝」を一枚もらえます。
どうやらこの宿の手形で次に来た時に見せれば少し安くなるようです。
※寛永通宝とは…
江戸時代を通して200年以上も使われていたもっとも一般的な銭貨。
流通量が多いため、今でも1枚120円など安値で手に入れることができる。
寛永通宝の文字や裏面に多少の違いがあり、それが価値を変えている。
高いものには数万円で取引されている寛永通宝も。
貨幣の歴史も面白いので後々記事化しますね!
宿の中にも多くの歴史があったのでちょこっと紹介します!
例えばこれ。
ゲストハウスなので色んな人と話せるんですが、そのみんなが集まる居間にはすごい古い温めるやつがありました。
温めるやつってなんやねんw
名前が出てこない…
めっちゃ古そうなミシンも!
こちらは冷蔵庫です!
セブンイレブンの歴史で出てきた、大きな氷を入れて冷やすタイプの冷蔵庫です。
セブンイレブンの歴史?となった方はこちらをチェックです!
今は中身がコップ入れになってます。
昔の冷蔵庫の中はこんな感じだったと知れただけでもすごい嬉しかったです。
古いもの大集合スペースもありました!
この写真の中に何か知ってるものや懐かしいと思ったものはありました?
僕は知ってるものより知らないものの方が多かったです。
これは電報ってやつですね。
昔はこれで文字を打って遠くの人へ伝えていました。
ボタンを押すと、奥のキーが動いて文字が打たれる原理だと思われます。
古いもの多すぎません?
歴史好きにはもちろん、雑貨好きにもたまらない数々ではないでしょうか!
僕ならこれだけで1週間は滞在できます。
とにかく「歴史」が多い宿ですよ!
「旅人宿 石垣屋」で実際に泊まった感想!
僕自身、結構人見知りなのでゲストハウス自体に最初はビビってました。
でも蓋を開けてみると泊まってる他の旅人さんたちや店主やその家族がとても優しく話しかけてくれるので問題ありませんでした。
夜にはみんなでお酒を飲んだりしながら雑談できる感じです。
その雑談が最高に面白かったです。
色んな旅人がくる宿ならではの、「こんな旅人がいた!」とか「旅で印象に残ってること!とか旅トークで盛り上がりました。
実この時に「すずしか峠行くんですよ!」って話をしたら全員に笑われて、あることを教わりました。
鈴鹿峠は「すずしか峠」ではなく「すずか峠」だと!
店主たち曰く、やはり僕みたいに勘違いして来た人は多いらしいです。
ここ関宿の関と同じ地名が岐阜にもあり、勘違いされてくる人がいたとか。
岐阜の関は刃物で有名で、勘違いしてきた観光客に「関の刃物はどこですか?」って聞かれたというエピソードも。
勘違い仲間がいて良かった…
一人がいい!って人にはオススメできませんが、それ以外の方ならぜひオススメできる場所だと思います。
東海道を歩いて旅しようと考えている方、関宿に行こうと思ってる方は一度訪れてみてはいかかでしょうか。
きっといい旅の思い出になると思いますよ!
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【東海道五十三次を歩く!14日目】人違いもあるけど、城違いもあります。
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は14日目三重県の四日市市からのスタートです。
前回の13日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「鈴鹿峠と言っても鈴鹿にあるとは限りません」
今日14日目の記事は鈴鹿市に到達したところからスタートです!
鈴鹿と聞けば東海道の最後の難所「鈴鹿峠」ですね。
僕はこの時まで鈴鹿峠を「すずしかとうげ」と読んでいたんですが、実際は「すずかとうげ」と言うことをあとで知ることになります。
しかも鈴鹿市とみるからに「鈴鹿峠やってきますよ!」の雰囲気醸し出してるのに、鈴鹿峠ないんです。
鈴鹿峠はさらに先の亀山市あたりなんです。
不思議な感じですね。
まさに見た目だけで判断してはいけないってやつですね。
と色々と思いながら歩いていると、
綺麗な風景や
ほぼさら地がありました。
ただただ風景を満喫してます。
途中で小さな地下道がありました。
奥の出口が光で満ちている雰囲気が良かったので一枚撮ってしまいました。
ここまで歴史要素ゼロ…
歩いてる道が歴史そのものなんだよ!(暴論)
たまに通る歩道橋のこの真ん中の自転車用の道が足を絶賛痛めている僕の負担を軽減できて嬉しいです。
このままだとこのパートが歴史ゼロで終わるので、ここで一枚。
こちらは石薬師寺です。
出典:Wikipedia
東海道五十三次にも描かれているお寺です!
僕が撮ったのはおそらく絵の真ん中にいる人たちのところからの写真ですね。
なぜか同じ角度から撮ってませんでした。(多分建物が多かったからだと思います。)
東海道五十三次を歩く!「人違いならぬ城違い」
ついにやってきたのは亀山宿です!
時間は16時前ですが、良い天気です。
この亀山宿にはお城がある(今は櫓とか一部)という情報を手に入れ、早速行きました。
それがこの亀山城!
亀山城で僕はハッとしました!
亀山城といえば明智光秀が築城した有名なお城やん!と。
でもよく調べたら全然違う別の亀山城でした。
築城したのも関氏という僕の知らない家です。
江戸時代にはこの亀山城は京都に行く将軍たちの宿泊所の機能を有していました。
お城と言っても現存はしていなく、あるのは多聞櫓というお城の一部でした。
※
城にある外の様子を見たり、防御のための施設を櫓という。
この櫓の基本機能に兵士の宿舎としての機能を加えたものが多聞櫓。
でも意外とこの多聞櫓がすごいんです!
・昔と変わらず同じ位置に現存している
・そもそも全国的にも貴重な歴史的建造物
ということで三重県の史跡に指定されてます。
人違いならぬ城違いをした瞬間でした。
今回の旅で初めてまともにお城を見れたのでそれだけで満足です!
【亀山城へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「長い道を抜けたらそこは江戸時代」
亀山宿歩いていて綺麗な写真が撮れたのでどうぞ!
僕、結構こういう逆光系の写真好きなんですよね。わかる人いませんか?笑
宿場を抜けた後に待ち構えていたのはこの長い長いゴールの見えない道です。
これは
※
細いまっすぐな道のこと。
だいぶ長い。
鈴鹿峠から吹いてくる空っ風(冷たい強風)が手強く、旅人を悩ませたという。
まぁすぐに歩き切ったんですけどね。
端折ったな。だいぶ端折ったなー。
そしてとうとう今日のゴール三重県亀山市の関宿です!
奥には最後の難所「鈴鹿峠」らしきものが見えます。
この関宿は入り口から出口、端から端までほとんど昔の町並みが残っていることから国によって、、、
「重要伝統的建造物群保存地区」
に選ばれてます!
早口言葉か何かかな?
要するに昔ながらのこの町並みを大事に残していこうってやつです。
関宿は東海道の難所鈴鹿峠を隣に控えているので、ここで宿泊する人が多く、とても賑わっていました。
出典:Wikipedia
東海道五十三次にも宿泊していた大名の「これから行くぞ!」の雰囲気が描かれてます。
浮世絵と同じ場所はこちらです!
描かれている本陣(宿泊所)は川北本陣と言われていますが、現在は石碑が建っているだけとなっています。
当時の姿が残っていないものもありますが、それでもこんなに昔の町並みが残っているところが日本にまだあったなんて思いもしませんでした。
ただただ感動ですね。
ここだけ本当に江戸時代のように見えました。
ということで今日はここ「旅人宿 石垣屋」で宿泊です!
歩き始めて初めてまともな寝床で、しかも宿場の中で宿泊できるなんて最高の二文字です。
石垣屋について気になった方はこちらをチェックです!
今日は鈴鹿峠を控えているためあまり歩きませんでした。
約25km歩き、亀山市まできました。
明日は東海道の最後の難所鈴鹿峠です!
【関宿へのアクセス】
【15日目の記事】
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