歴史の教員免許を持つ歴史好きが教える!火事によって変わる江戸!
どうも料理の歴史について勉強中のしょうです。
今回は料理だけに箸休めとして料理ではない歴史の話をします。
前回、明暦の大火という江戸時代最大の火事により江戸は大きな被害を受けたという話をしました。(それによって飲食店が出てきたことも!)
火事によって飲食店ができたという言葉が気になった方はこちらをチェックです!
今回はその火事によって江戸の町はどう変わったのか歴史の教員免許を持つ歴史好きが超絶分かりやすく話します!
そもそも被害が大きくなった原因
江戸の人口は参勤交代や出稼ぎの影響で急速に増加しました。
人口が増加すると人が住むための家もその分必要になりますよね?
つまりキツキツなんです。
歴史図解するとこんな感じです。
キツキツだから一度燃えたら燃えた家の隣にすぐ燃え移るんです。
それに今と違ってコンクリートではなく紙と木でできた木造です。
そんな環境、燃えない方がおかしいですよね!
江戸幕府が開かれて閉まるまでの267年ほどの間に50回近い火事があったそうです。
他にも気象条件も関係していたみたいですが、乾燥した状況で風も最悪な風向きだったとだけ知っておけば大丈夫です。笑
火事によって変わったこと
明暦の大火という江戸時代最大の火事によって江戸の町は大きな被害を受けました。
その被害を受けて江戸の都市改造が行われました。
その一部を紹介します。
火除地 や広小路 の設置
江戸の火事が大きくなる原因は先ほど話した家同士が近いし多いキツキツ状態です。
そこで火除地と広小路が設置されました。
火除地とは空き地のことです。
空き地なら隣が燃えても燃え移るものがないので火が広がらないのです。
頭いいな!
燃え移らないようにするものとして似たものに広小路というものもあります。
広小路は道幅の広い道路です。
幅が広いため、火除地同様に隣に燃え移ることを防ぐことができます。
とりあえず、江戸の町最大の欠陥であったキツキツ状態はこれでまぁ解消です。
ちなみに家が燃えたら燃え移らないように周りの家を叩き壊してました。笑
定火消 の制度化
旗本という江戸幕府直属の部下たちに消防を命じたものです。
火の見
もはや江戸時代の消防団です。
※火の見櫓とは…
火災が発生した時に登って町の様子を把握し、消防団を招集、町内への警鐘に使わた高さのある見張り台。
明暦の大火後の江戸の復旧に全力を注いだ男!
明暦の大火という江戸時代最大の火事によって庶民だけでなく幕府も慌てていました。
そんな時に冷静に対応していた人物がいました。
それが
先ほどの政策はほとんどに保科正之が関わってます。
さらに、被災者救援にも力を尽くし、粥の炊き出しをしたり、家を焼け出された人たちに救助金を支給したりしました。
この時に幕府から「それでは幕府の貯金がカラになっちゃう!」と言われました。
それに対して正之は「幕府の貯金はこういう時に使って民衆を安心させるものでしょ?ここで使わないならなんのための貯金?」という「今でしょ!」ばりの一喝をしました。
かっこいい…
江戸城の
だから江戸城に観光に行くと、そこには天守閣はないのです。
江戸の町と民のために尽力した名君だったのです。
ちなみに正之は福島支部(
支部やら参勤交代について気になった方はこちらをチェックです!
火事によって変わった江戸
火事によって江戸は大きく変わりました。
様々な防火対策が施され、町には飲食店ができたのです。
そしてその歴史は今も見ることができます。
上野広小路という地名。
この広小路はまさに防火対策の広小路のことなのです。
そんな歴史の名残をぜひ東京で探してみてください。
驚くほどにいっぱいありますよ!