【東海道五十三次を歩く!12日目】東海道五十三次は誇張されてるものもある!
こんにちは。参勤系男子のしょう(@shos_history)です。
3月18日からついにスタートした東海道五十三次の旅略して一人参勤交代。
~これは現代文明(飛行機や新幹線など)があるにもかかわらず、それらを使わず東海道五十三次を自分の足で歩くというよくわからない企画の記録である~
今回は12日目愛知県の岡崎市からのスタートです。
前回の11日目の記事を読んでいない方はこちらをチェックです!
東海道五十三次を歩く!「雲竜の松と助太夫の免除申請の話」
今日最初の観光はこの永安寺です。
この永安寺には大きな松があります。
その名も雲竜の松!
名前も見た目もかっこいい…!
この雲竜の松には感動の歴史があります。
時は江戸時代。
宿場では人と馬が手配され、やってきた旅人や大名たちのために割り当てられ使われたという話は既にしました。
その人と馬はどこから来るのか…
そう。近くの村々からやってくるのです!
江戸幕府が宿場の保護のためにその宿場の村々(選ばれし村)に「人と馬を宿場にちょくちょく派遣するように」という命令がされていました。
これは選ばれたくない…
これが
元は臨時の仕事だったのに、交通量が次第に増えていくとデフォルトの仕事になりました。
デフォルトになると助郷役に選ばれた村は困窮していきます。
これが江戸時代の繁栄にある裏側の負の部分です。
そして話はこの松の木がある村。
困窮に耐えかねた柴田助太夫は「村が困窮してるので人馬の派遣免除してくれ!」と直訴(偉い人に直接訴えること)という免除申請をしました。
この村の領主(長)であった殿様は男の要求を聞き入れて免除しました。
これはアツい!
しかし!
え??
男は死罪となったのです!
ええええええ!なんで!
この時代、直訴するだけでもかなりの命がけだったようです。もちろん命が助かるケースの方が多いのですが。
これ以降この村は、村を支配する殿様が変わるごとに(要は管理人が変わるごとに)この助太夫の一件を説明し、免除申請を更新し続けました。
ついには幕末まで免除申請されたようです。
村の人たち強すぎるw
村の人々は助太夫に助郷役を永遠に免除できたことに感謝し、彼の住んでいた家を寺として整え「永安寺」と名付けました。
「雲竜の松」という名前の由来は雲を超えて天に登ろうとしている竜を連想させる形からきています。
樹齢は助太夫の頃からと言われていますよ。
いい話すぎてドラマ化できる…
ぜひ英雄助太夫の永安寺訪れてみてください!松の動きがすごいですよ!
【永安寺へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「いもかわうどんと阿野一里塚」
いつの間にか知立市に来ました。
松並木がまたいい味出してます。
じじいみたいな感想だな…
いもかわうどんと書かれた場所もありました。
昔、いもかわうどんという食べ物がこの辺りの名物であったようで、街道一と言われるくらの評判だったようです。
このいもかわうどんが名古屋名物きしめんの起源と言われています。
そしてこちらは阿野一里塚です。
両側とも現存している珍しい一里塚であることから国の史跡に指定されています。
昔のまま残ってるなんてすごい!
東海道五十三次を歩く!「桶狭間の戦いの戦場はどこ?」
戦国好きで、織田信長好きと言えばここは外せませんよね?
そう!桶狭間の戦いの古戦場跡です!
※桶狭間の戦いとは…
今川義元という東海地方をだいたい支配していた大殿様が「そろそろ京都に行くか」と大軍を率いて動き出した。
その道筋にいたのが織田信長であった。
この頃の織田信長は弱小レベルなので余裕で倒せると思っていた今川さんは桶狭間でひと休憩。
偶然にも大雨であった当日。織田信長は今川さんたちが休憩してるところを急襲し、今川義元を討ち取る。
ここから織田信長が歴史の表舞台に登場する。
同じくして今川義元の部下をやってた徳川家康も独立し、表舞台に登場する。
後に三傑と言われ歴史を動かしていく二人の歴史が今ここから始まった。
とりあえず、織田信長が歴史の表舞台に登場するきっかけとなった戦いが桶狭間の戦いです。
そりゃあ信長から見て圧倒的格上の相手を倒したんですから注目を浴びます。
しかし、実は桶狭間の戦いが起こった場所がどこなのかはまだ確定してないんです!
ここ豊明市にも隣の名古屋市にも古戦場跡があるのです。
こんなに有名なのに謎に包まれていて、まさにミステリーですね。
ここ豊明市の古戦場には、、、
今川義元の霊が祀られているお墓や
今川義元が馬を繋いだとされるねずの木があります。
今川義元自身は豊川市にある大聖寺に眠っています。
せっかく桶狭間の古戦場を巡るならここ豊明市も名古屋市も両方見ておきたいですね。
東海道五十三次を歩く!「一里塚の木はオーラが違う!」
ということで一旦休憩。
まさか抹茶味のピノが売っているなんて。
美味しそう…
しっかり休憩して次に向かったのは名古屋市にある鳴海宿。
昔の町並みが残っていました!
古い町並みの先には有松一里塚がありました。
現代風に復元された一里塚のようです。
現代に一里塚があったらこんな感じって感じがする!
常夜燈もありました。
旅人の目印であり、安全と火除けの祈願として存在していたんです。
江戸時代は火事が多いですからね。
こっちの笠寺一里塚は木がすごいです!
何百年も生きてますよオーラが全開でした。
迫力がすごい…!
桜と橋が最高にマッチしてます。
ここは今川の人質だった織田信広(信長の兄)と織田の人質だった竹千代(徳川家康)が人質交換された場所です。
江戸幕府を開いた徳川家康も幼い頃は苦労の連続でした。
東海道五十三次を歩く!「熱田神宮と東海道五十三次」
そしてそして!
ついにやってきました。熱田神宮のある宮宿です!
さっそく熱田神宮に行きました。
※熱田神宮とは…
三種の神器の1つ「草薙剣」を祀っている神社。
織田信長は桶狭間の戦いの前にここで戦勝祈願して勝利を収めた。
草薙剣といえばこの日も草薙というワードに出会いました。
ここでお参りを済ませて、東海道五十三次の絵の場所を探しに神主さんに聞きました。
出典:Wikipedia
あの〜。この絵の場所って熱田神宮だと思うんですが、この赤い鳥居は熱田神宮にありますか?
無いね。昔から赤い鳥居は無いよ!でも場所的には見た感じ海沿いだね。だから南鳥居の方だと思うよ。
実は東海道五十三次は全部実際の風景ではなく、誇張していたり、イメージで書いていたりする絵もあるのです!
しかも、熱田神宮のある場所は昔は岬だったようで、周りは海だったんです!
めちゃくちゃ驚きの連続だったんですが、一番驚いたのは神主さんの知識量。
東海道五十三次の絵を見ただけで、海沿いと分かるのがやばいです。
僕には絵を見て海沿いなんて全く分からないです。
ということで東海道五十三次の場所と思しきところで写真をパシャり。
歌川広重は空中に浮いて絵を描いたのかってくらい鳥居が高い位置から描かれてますが、僕には無理でした。
【熱田神宮へのアクセス】
東海道五十三次を歩く!「七里の渡し」
今日最後にやってきたのは七里の渡し跡です。
先ほども言った通り、昔ここら辺は海だったので隣の桑名宿から船を使って渡っていました。
江戸時代には参勤交代で東海道を使う大名たちは船を使って七里の船旅をしていました。
歩き疲れた人にはありがたい休憩タイムですね。
その船着場がここです。
常夜燈(江戸版街灯)や時の鐘(時計)が復元されていて、当時の港っぽい雰囲気が出てました。
夜景もまぁまぁ綺麗でした。
僕は船なんてないので歩いて迂回です(白目)
今日は約35km歩き、ここ名古屋市まで歩きました!
【13日目の記事】
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